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当社代表 楢﨑ごう 共著「M&A革命」

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~黒沢明の映画づくり~



「赤ひげ」・「乱」・「羅生門」・「七人の侍」・「用心棒」・「デルス・ウザーラ」・「影武者」といえば、「世界のクロサワ」・黒澤明監督の作品。氏には、口数少なく近寄りがたい威厳を持つ孤高の天才というイメージがありますが、実はとてもおしゃべりで子供っぽくお人好し、いつもスタッフのことを気遣う優しい人だったようです。現場でもとても楽しそうに指揮をとるそうですが、怒るときは激しいとのこと。スタッフを心から信じているからこそ、努力すればできるだろうと雷を落とすのです。そして、うまくいったときは満面に笑みが溢れ、本当にあいつは優秀だとほめまくります。「人間は素晴らしい。もともと悪い奴なんていない」と。

映画監督というと、メガホンを片手に錚々たる顔ぶれの役者を思うままに動かし、好きなように映画を作ってゆく華やかなイメージが浮かびます。しかしながら、実際の映画作りは、資金集めや人集めを始めとして、資料や情報の収集から時代考証、裏づけ取りまで、地味で忍耐の要る部分が多いのです。人、物、お金を動かし素晴らしいものを作り上げていくという点では、中小企業の経営と何ら変わりありません。

「何を好き好んで映画監督になんかになったのかね。大変じゃないことを探すのが無理なぐらい面倒くさいことの連続でさ。肉体的にも精神的にも重労働で、もういやだって気持ち悪くなるほど働いて、もう駄目だって思うのに、馬鹿だね、また撮りたくなるんだ。それは映画を心底愛してるってことだと思う」

一つのシーンを撮るとき、右足から歩き出すのか、それとも左足からなのか、埃の舞い上がるタイミングをいつにするか、天丼のエビの尻尾はどっちを向くのかなど、そんなことで頭が一杯になるのだそうです。

《何でもやる》
助監督時代は脚本、撮影、照明、録音、編集、美術、小道具、衣裳、メークなどは無論のこと、通行人の役、ロケの会計から大道具の仕事まで、すべてを勉強させられ、そのことが監督としての仕事の上で大変役に立ったそうです。

「映画製作の万事に精通していなければ監督は勤まらない。監督は前線司令官のようなものだ。戦術は知っていても、各兵科に精通し、各部隊を掌握していなければ指揮はとれない」

実際、ポスターのデザインや貼る場所にまで気を配り、アイデアを出しています。

《お金と人を集める》
映画はお金がかかります。時には世界各国の映画会社や企業を巡り歩いて資金を調達しなければなりません。世界の黒澤といえども、そう簡単に出資してはもらえないのです。脚本の面白さやキャスティングの顔ぶれ、お金の使い道の配分や工夫などについて細かに説明するのも大切な仕事です。何度も打ち合わせを重ね、削除すべきところや膨らませるところを詰めていきます。脚本が出来上がってから五年たってやっとクランクイン、というようなことも二度や三度はあったといいます。またお金と同じく、四六時中集めていたのが人(スタッフ)だそうです。みんな映画を生業としている人ですが、丁度他の仕事が入っていたり、病気だったり、集めるのに一苦労なのです。

ようやくスタッフが揃ったところで、次に出演者を集める段階に入ります。しかし、目当ての役者がすでに他の仕事に入っていたり、運よくその役者が捕まっても、今度は相手役のスケジュールが合わないというケースもあります。従って、八方手を尽くしたにもかかわらず、結局振り出しに戻ってしまうこともあるそうです。

中小企業と同じく、完璧な布陣でスタートできる方がむしろ少ないといえるかもしれません。

《大根役者でもいい》
いい役者ばかりを揃えたからといって、必ずしも良い映画ができる訳ではありません。「主役には、演技は大根でも牛肉のように存在感のある役者。脇を固めるのはしっかりした演技のできる器用な味付け役者。そこにくさい演技のニンニク役者を利かせて、無味無臭の自然なミネラルウォーターのような役者で煮込むんだ」。これが氏の考える適材適所です。「七人の侍」や「椿三十郎」など、一連の作品を見ればさすがと思います。

《勉強》
映画製作の過程では、時代考証やさまざまな裏づけを取るため、詳しい人に話を聞いたり、現物を見せてもらったりしなければなりません。映画で使用する造形物や、動植物の生態など、画面に出てくるすべての事柄を調べなければならないのですから、その労力は大変なものです。当然の事ながら、関りを持つ人も膨大な数に上ります。氏の本棚は各種辞典はもとより、時代考証のためのさまざまな時代の本、地図、民俗学、動物の生態、植物の本、雲の図鑑、漫画、原子力の本、仏像や骨董の本、能装束の本、学童唱歌の本、各地の郷土料理の本、スポーツの本、俳句、科学、哲学、化粧の歴史、ミステリー、警察関係、軍事関連、子供の遊び、文学書や小説など、あらゆるジャンルの本で埋め尽くされています。

《夢中になる》
合戦のシーンをイントレ(仮設の台)の上で指揮する時には、「夢中になって拡声器を振り回し、スイッチがどこだか分からなくなる。興奮し過ぎてついには拡声器をたたきつけ、大声で怒鳴る。でなければすぐ近くのスタッフにまで拡声器で指示を飛ばす」等々、実際の戦場さながらの修羅場になります。そばに居るスタッフはたまったものではないでしょう。そんな監督の姿にスタッフの誰もが微笑んでしまうといいます。

《楽しくなるまで》
「ともかく続けて一生懸命やっていれば必ず楽しくなる。そうすればめっけもの。いやだいやだと思うことは先に進まない。楽しいと感じ始めるところまで一生懸命やれば、あとはいくらでも努力できるものさ」

「何をやっても、きっかけや入り口が見つかれば一気に面白くなってね、トントントンと前に進むわけさ。集中できるまで、夢中になれるまでが苦しいんでさ」

《繰り返せばいつか》
「馬鹿でも何でも、どうしたらいいか分からなくても、繰り返しこれでもか、これでもかとやっていれば、たいていのことはできるようになるし、よく見えてくるからますます面白くなるんだ」

「感激とか感動は与えてもらうものではなく、作り出すものだ。それには気が遠くなるほどの努力の積み重ねが必要なんだ。その長い道のりをどう楽しく過ごせるか、それこそが才能であって、ちょっと駄目だと思うとふてくされて投げ出す奴は人生を楽しむ術をしらないのだ」

《何で分かるの》
氏のお嬢さん、黒澤和子さんは食事の時のことをこう回想されます。

「たまに気が入らずに、投げやりに作ったものが食卓に上ると、父はジロリとにらんで、そのおかずをスーッと手で遠くにどかす。『何で分かるのかしらね』と、母と目を見合わせて反省したものだった」

「一所懸命やって駄目ならしょうがない。一生懸命やってないのはすぐ分かる」

映画製作に命を賭け、現場で研ぎ澄まされた直感は、あらゆるものを瞬時に見抜く超能力にまで高められているのです。

《良いものができるとき》
「予算がないとか実現性に無理があると言われて、工夫しなければと追い詰められたときに、ものすごく良い案が出て、最初から思い通りにできたものよりこの方がいいじゃないかってことはよくあるんだ。だから人生だってそうじゃないのかな」

・役者の特徴をしっかり把握して、それぞれの長所だけでなく、短所までも活かす。
・楽しくなる所まで我慢して頑張り続ける。
・我を忘れるほど夢中になる。(情熱、無心)
・どんなに細かい部分も疎かにしない。
・愛を持って帰一する。

「僕はね、なぜ人間は幸せになろうとしないのか、ただそれを言いたいだけだよ」
「誰にとっても一日は二十四時間だけど、戦渦の中でその一日を過ごす人が一人もいなくなるために、僕は何かできたのかなと、それだけは心残りだ」

氏は人々を愛し、世界の平和を心から願って映画を作っていたのです。


~無欲恬淡(てんたん)の士の姿~



列強が覇を競い合っていた戦国時代に「勇謀武略は当時の人がひどく敬い、かつ恐れていたもので、その名はあの楠木正成と並び称された」と、新井白石が自著「藩翰譜(はんかんふ)」で褒め称えた人物がいます。

その人物とは、美濃(現、岐阜県)の竹中重治(しげはる)、通称半兵衛。「名将言行録」において、彼は「豊臣秀吉を補佐して軍略を整え、敵を制圧する知謀はあたかも神の如くであり、秀吉からは深く信頼され、折々に意見を求められていた」と評されています。

永禄三年(一五六〇年)、半兵衛は、父の病死により家督を継ぎ、美濃の菩提山城の城主になります。この時、半兵衛は十七歳。

当時の美濃国は屈強揃いで、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった織田信長の軍勢ですら、攻め入っては撃退されています。信長は何度も煮え湯を飲まされたことでしょう。

美濃の中でも、主君斉藤竜興(たつおき)がいた稲葉山城(後の岐阜城)は警戒を厳重に固めていました。

ところが永禄七年(一五六四年)、半兵衛はこの城を一夜、しかも僅か十六名で攻め落としたのです。敵味方ともどもにほとんど死者を出さなかったこの城攻めは、まさに神技と呼べるものでした。

城攻めにあたって、半兵衛は人質として城内に差し出していた弟の久作に密かに指示を出します。「病(やまい)になれ。そして、その知らせが半兵衛のもとに届くようにせよ」。やがて、久作が病である知らせが半兵衛の下に届きます。病気の弟を見舞うという「大義名分」ができた訳です。

また、半兵衛の容姿は色白で、か弱く、普段から昼行灯(ひるあんどん)などと馬鹿にされていたので、門番も警戒しませんでした。どうやら半兵衛は、有事のために普段から無能を装っていたようです。

こうして半兵衛は、選りすぐった部下を伴い、武具を入れた長持(ながもち)を見舞いの品と称して、難なく稲葉山城内に入り込みます。そして、城内が寝静まった時を狙い、作戦を決行するのです。

慌てて出てきた城兵には「城外には既に数万の兵が包囲している」などとデマを流して、斬らずに見逃します。追い打ちを懸けるように、半兵衛の配下は鐘楼の鐘を打ち続けます。寝惚けまなこで正常な判断が下せるはずがありません。城兵は本当に兵が襲ってきたと思い込み、半兵衛の狙い通りパニックに陥りますんなに屈であっても、統率がとれていなけばとかわりません。かくして、半兵衛の軍略によって稲葉山城は見事にめとされたのです。

この出来事は「竹中半兵衛」の名と共に諸国に鳴り響き、とりわけ美濃の国と隣接していた尾張の織田や近江の浅井といった大名らを震撼させました。

信長は、即座に自らの意を含めた使者を半兵衛の下に送ります。「稲葉山城を譲り渡すなら、御身を織田の重臣として迎え、加えて美濃の国の半分を領地としてさずけるであろう」

しかし、半兵衛はその申し出を断りました。そればかりか、斉藤竜興に城を返し、菩提山城の城主の座を久作に譲り、隠棲してしまいます。もともと、半兵衛の目的は、美濃を手中に収める事ではなかったのです。

主君の斉藤竜興は、当時、暗愚の評判が高く、付和雷同する取り巻きを寵臣にし、諫言する有能な忠臣を疎んじ遠ざけていました。このままでは、如何に美濃の兵が強いと言っても国の内部から崩壊し、織田などの列強の餌食になることは必至と、美濃の国勢を憂うる声は、城下にも日増しに高まっていました。そこで半兵衛は、主君斉藤竜興と愚臣らに灸を据え、国勢を正さんと、自らの武名を高める効果も思慮した上で、稲葉山城を陥落させるという行動に出たのです。

権謀術数が渦巻き、裏切りが日常茶飯事だった時代に、この義侠に富み、恬淡(てんたん)な振る舞いに諸国の大名は目をみはり、「竹中半兵衛」の名は深く胸の内に刻まれたのです。数年後、半兵衛は木下藤吉郎(秀吉)に請われて、主君は信長でありながら、秀吉に仕えるという異例の主従関係の形で仕えています。

「秀吉が多くの武功を立て、信長に取り立ててもらえたのも半兵衛の補佐のおかげ」と言われ、もし半兵衛がいなかったら、秀吉は天下人になれなかったかもしれない、という見方すらあります。

半兵衛は自らの軍略が成功しても功を誇ることはなく、出しゃばることを嫌い、た秀吉を佐することに専心しましたそんな兵の生き様に秀吉は惚れ込み、全幅の信頼を置いていました。さらに半兵衛は、秀吉だけでなく周囲の人々にも心配りを欠かしませんでした。

ある日、一人の大名が家老相手に「この度の戦、半兵衛が陣替えを下知しても、わしは従わぬぞ。半兵衛め、事ごとに五月蠅(うるさ)く言いおって実に不愉快じゃ」と息巻いていました。半兵衛がやってくると、大名は横を向いてふんぞり返っています。しかし、半兵衛は一向に介さず大名の前に来て、さも感心したかのようにこう言ったのです。「まさに、このお布陣の場所といい、勇猛果敢なお旗色といい、流石(さすが)でございますなぁ。筑前守殿(秀吉)も、ほとほと感服なさっておられます」

誰であれ、褒められれば気持ちは良いものです。大名は思わず頬をゆるめながら半兵衛の方に顔を向けると、半兵衛はニコニコしながら、何気なくこう言ったのです。

「もっとも、筑前守殿の仰せでは、足軽の備え、旗の位置などをもう少し変えたなら、さらによくなるであろうとの事でした…」

「しまった!」と思っても、もはや後の祭りです。秀吉の名を出して褒められた上、ニコニコ顔で対応してしまっては、今更知らぬ顔も出来ず「なるほど、確かにもっともな仰せでござる」と素直に陣替えを承諾せざるを得ませんでした。

半兵衛が引き上げた後、この大名は笑いながら家老に言ったそうです。「流石に半兵衛じゃ。断ることが出来ぬよう見事に仕掛けてきおったわ」。

半兵衛は、どうしたら人が活かされるのかを常に考えていました。自軍に於いては、前述のように相手を立てて反感を買わぬように、また、敵軍に対しては、戦わずして敵を降伏させることを第一と考え、調略・外交政策によって敵を制することを実践し続けます。秀吉が敵を味方に付けることを得意としたのも、実はこの半兵衛の影響があったからである、と語り継がれています。

一度策を講じれば、悉(ことごと)く勝ちを収め、軍の敵味方を問わず人々を味方に引き入れることができたのは何故か…。それは半兵衛の生き様が無欲恬淡であったからに違いありません。
また無欲恬淡であったからこそ、我欲に目がくらむことなく素晴らしい軍略が練れ、献身的なその姿に人々は魅了され、感服したのです。


~日本が誇るハイテク企業の心意気~



「光って本当に足の遅いやつです。私たちは、光を一〇億分の一秒の単位で計ってますから、それで見ると光は三○センチしか進まないんです。」と、この世に現存するモノの中で、もっとも早いはずの光を「遅い!」と言い切る社長は、他ならぬ、光技術メーカー浜松ホトニクスの晝馬輝夫社長です。

ところで一体、浜松ホトニクスとはどんな会社なのでしょうか?そこには「テレビの父」と言われた高柳健次郎教授の存在がありました。

明治三二年、浜松で生まれた高柳少年は、小学三年生の時に「モールス信号」と運命的な出会いをします。タイタニック号の沈没を無線でキャッチしたことが話題になっていた時、高柳少年の学舎に海軍の水兵が来てモールス信号をデモンストレーションしたのです。その様子を見て興奮する高柳少年に、担任の先生は「どんな難しい問題でもコツコツ努力すればわかる」と学ぶ喜びを教えます。

これを機に、無線に思いを募らせた高柳少年は刻苦勉励し、後に母校でもある浜松高工(現・静岡大学)の教授となります。そこで彼は、以前からの夢であった、無線で画像を送る研究に没頭し始めたのです。そしてついに大正七年、世界で初めて、ブラウン管に「イ」と言う文字を写し出すことに成功したのです。

テレビ誕生の瞬間です。この成功により、高柳教授はNHKと本格的なテレビ事業を推進するのですが、残念にも太平洋戦争で中止となってしまいます。しかしながら高柳教授は決してその夢を諦めませんでした。

終戦後、高柳教授は再びテレビ開発を目指し、あらゆる努力を試みます。まずは戦争で散り散りになった教え子や部下を集めます。そして同時にGHQを説得し、テレビ開発の許可を取り付けました。

この高柳教授の熱意に動かされたNHK、ビクター、シャープ、といった様々な企業と団体は、高柳教授の元で一致団結し、戦後の日本復興に燃えたのです。

この、異なる組織より集結した技術者らが、一つのプロジェクトチームを組むのは日本初の試みでもありました。
「一人の天才より、力を合わせた技術者チームの方が勝る」
「前人未踏のことをするんだ」
「新技術の女神は、後頭が禿だ、女神を追いかけるのでなく女神の先回りをして前髪を掴め」「今、流行の技術でなく、二○年、三○年先の技術を見ろ」

プロジェクトチームのリーダーである高柳教授は、つねにメンバーに檄を飛ばし続けました。その結果、当プロジェクトチームは一気にテレビ事業を推進し、昭和二八年、ついに日本初のテレビ放送をスタートさせたのです。高柳教授がブラウン管に「イ」文字を写し出してから、既に三○年が経過しての「夢の実現」でした。

そして、このテレビ放送プロジェクト完了後も高柳教授の門下生の一部は解散せずに、堀江平八郎氏を中心にした「光」を研究する浜松テレビ(後の浜松ホトニクス)を創業することになるのです。

この浜松テレビは、片田舎の小さな技術者集団の会社でしたが、水中カメラの開発など、高度な技術力が徐々に世間の評判となります。

そんなある日、取引先より、「僅かな光でも察知出来る光電子倍増管を作れたら浜松テレビ様と呼んでやるよ」と、半ばからかいに近い電話を受けます。この言葉に、高柳門下生達の血は燃えました。

ところがこの当時、「光電子倍増管」を開発していたのは、RCA、EMI、フィリップといった世界に名立たる巨大企業ばかり…。どこの企業も数百人というドクターを抱え、巨大な資本力にものを言わせてこの「光電子倍増管」開発を目指してしていたのです。

そのライバル企業(?)に片田舎の中小企業である浜松テレビは、果敢に挑んで行くのです。
「研究室でモノが生まれるわけがない。製造現場で生まれるのだ」と、まるでドラマ踊る大捜査線の名セリフ「事件は現場で起きているんだ」を掲げ、高柳門下生としての意地と根性と大和魂をもって取り組み始めます。

重ねた失敗の数は数え切れないほどの量…。休日もその殆どを社員一同が返上…。経理も営業も総務も人事も、まさに社員一丸となって出来るまで挑戦し続けたのです。

その結果、ナント大企業に先駆けて「光電子倍増管」を一九五四年に完成させてしまったのです。
「RCAが一〇年かけて出来なかったことを、完成させた会社が日本にある」

浜松ホトニクスの快挙は国際的話題となり、世界じゅうの企業や研究期間が「浜松もうで」をして無理難題を持ち込むようになったのです。
「どんな難しい問題でもコツコツ努力すれば出来る!」

このポリシーの元、高柳教授の薫陶を受けた門下生達は、一致団結して難題、難問を次々に解決して実現化し、いつしか「世界にライバル無き、小さな大企業」へと変貌を遂げてゆくのです。

そして今から二〇数年前、無理難題を浜松ホトニクス持ち込んだ一人の大学教授がいました。その人とは、あのノーベル賞受賞をした東京大学の小柴教授です。
「素粒子ニュートリノを検出できる高性能の光電子倍増管を開発して欲しい。もし素粒子が存在すれば、水を通過する時に微光を発するハズなのだ」

浜松ホトニクスの晝馬社長に小柴教授はなかば強引に強要します。
「生年月日はオレが一日早い。兄貴の言うことをきけ。ノーベル賞級の研究のためだ」

結局、浜松ホトニクスは、二○年もの歳月をかけて素粒子検出装置「スーパーカミオカンデ」の核となる高性能光電子倍増管を開発します。しかも十分な研究予算が与えられなかった小柴教授に三億円赤字の「九割引」という金額でその製品を提供したのです。

そして皆さんもご存じの通り、小柴教授はニュートリノを発見し、田中さんと共にノーベル賞を獲得しました。このように小柴教授の受賞の影には、じつは浜松ホトニクスの技術力と心意気があったのです。

女神の前髪をつかむために、未知なる「光」を研究して、前人未踏の技術開発を全社員一丸となって行っている浜松ホトニクス…。社風・企業文化は会社経営に大きく影響すると言われますが、この世界に比類無き、スーパーハイテク企業である浜松ホトニクスが繁栄する基には、師である高柳健次郎教授の教えや哲学、心意気が社風となって今も脈々と息づいているのです。


~予期せぬ収穫の得られる5Sとは…~



躍進を続ける企業は、独自性の高いノウハウを行う一方、至極基本的なことも確実に実行しています。製造業が基本スローガンに掲げる4S(4Sとは整理、整頓、清潔、清掃)は現在、一流企業のその殆どが採り入れ、その中でもキヤノンは、この4Sに「しつけ」を加えて5Sとし、大きな成果を上げています。

広大な自然に囲まれた静岡県裾野市の山道をクルマで登っていくと、モダンな建築様式の建物が忽然と姿を現します。そうです、これがかの有名なキヤノンの富士裾野リサーチパークです。誰もが目を見張る現代的な外観に、豪華なロビー、カフェテリア…。さらに内部の実験室に足を踏み入れると、そこはまるで図書館の閲覧室のようです。

一般的に企業の実験室と言えば、雑然として暗い部屋を思い浮かべますが、ここを見るとそんなイメージは全く覆されます。ところが、このリサーチパークも当初は決してこのようなところではありませんでした。町工場のどこにでもある乱雑で、決して清々しい環境とは言えない実験室であったのです。では、なぜこのような研究所に生まれ変わったのか?

それは九九年三月の初旬、ある二人の劇的な出会いから改革が始まったのです。その二人とは、周辺機器事業本部長の市川氏と、周辺機器第二開発センターの野口秋生所長です。

市川氏は九八年に発足した経営革新委員会の開発システム革新委員会で知的生産性向上分科会を担当し、開発部門の革新は出来ないか…、と日々頭をひねっていました。「生産現場では5S(5Sとは整理、整頓、清潔、清掃、しつけの五つの言葉の頭文字)の標語に則って整理整頓を心掛けている。開発部門でも整理整頓した方が効率がアップするのではないか」

そんなある日、市川氏は富士裾野リサーチパークを訪れ、たまたま目があった野口所長に声を掛けました。「実験室をきれいにしてくれないか」

まさにの瞬間から、実験室の大改革が始まったのです。

野口所長のまず取り組んのが掃。「実験室を掃」という声までも何度も部内から上がったそしのびに重要な事中断してしまう」といった反対意や、「忙しいから自分のとろだけ例外扱いにして欲しい」という現場の声で、いずれも上手くいきませんでした。

ところが今回、陣頭指揮に当たった野口氏の決意は固かったのです。「今回はトップダウンで管理者が本気でやることを示す。そのためには、なぜやるのかを十分理解してもらった上で、全員参加を徹底する」

こう決意表明した野口所長は、部下の各室長たちを集め、電気実験室のすべてを対象にして、大掃除を実施することを伝えました。

実施日は五日。事前の準備や片付けなどを含めれば、前後二日を合わせて三日間はかかります。大掃除の宣言後、やはり一部の職員からは不満の声が上がりました。しかし、野口所長はたった一言。「目をつぶって、とにかくやるんだ!」と。

ここで例外をつくると、大掃除が不十分になるし、別部署との不公平が生じるとの判断から、彼は半ば強引に大掃除を進めます。そして無事大掃除を終えた野口所長は、つぎにレイアウトの変更に取りかかりました。

ここで少々横道に逸れますが、野口所長が実験室改革のコンセプトとして打ち出した内容に触れてみましょう。それは前出の5Sと共有化、機能美です。野口所長はこの中のしつけ(5Sの一つ)が最も大切であると説きます。

それは、「今まで出来なかったこと、やらなかったことも文化として定着すれば当たり前のようになるからです」

こうして野口所長は、つづく「共有化」を推し進めていきます。

それまで個人持ちにしていた工具、計測器などをすべて共用にし、工具、計器類にそれぞれ番号を振って、ショップと呼ばれる実験室内の特定の場所に備えさせる。そしてこれらの備品には管理者を設けず、あくまで利用者の自己管理に任せる。借りるときは一日単位を原則とし、一日の仕事が終われば、必ずもとの場所に戻すこれら一連のルールを彼は社員に徹底させたのです。

れまでのキヤノンで、新入社が開発部門に来ると、工具一式を与えていました。ネジ回しなどは消耗品扱いで、なくなると皆、管理部門に貰いに行きます。ところがいざ大掃除をして棚卸しを行い、共有化をスタートしてみると、なんと余っていた工具がぞろぞろと出てきたのです。一台八百万から一千万円もするオシロスコープのような計器類も実験室一つで一台有ればよいことが分かり、ネジ回しやハンダごて等は、四十人が八本を使い回せば充分であることが判明しました。

続いて行われたのが「機能美」です。機能美は「使いやすく、見た目もきれい」を目指したコンセプト。大掃除だけでは終わらせずに、お金をかけて新しい棚や机、イスを購入しました。もちろん購入に際しては、色やデザインで統一感を出し、室内全体の見晴らしが向上するよう工夫がされています。低めのパテーションで統一されているのも、座っていれば隣席と顔が合わないが、立ち上がれば部屋全体が見渡せる、実験室に入った時に、広々とした感じがするように計算された配慮です。

これら一連の改革の結果、富士裾野リサーチパークでは、技術者の実験などの作業効率が格段に改善され、新しいアイデアや技術が次々と開発されて行きました。

改革のメリットとして野口所長が強調するのは、
「なによりも技術者の考える時間が増えたことです。共有化のおかげで計器類や工具の所在がはっきりし、実験の段取りが早くなったためです。以前は二十分から三十分で結果が出る実験の準備に、丸一日も費やしていました。最近は同じ準備が三十分程度で済むようになったのです…」

しかも5Sは、思わぬ収穫をも生み出しました。新たな什器設備を購入したにもかかわらず、なんと、設備予算を昨年対比で六〇%以上の削減を達成したのです。

皆様も、仕事が行き詰まった時、考えがまとまらない時には、生活修業の原点に立ち戻り、自らの身体を動かして、身の回りの「整理、整頓、後かたづけ」をなさっては如何でしょうか。会社の気が変わり、頭の中も整理されて、予期せぬアイデアや大きな収穫が得られるかもしれません。


~絶え間ない商品開発ジャズの世界~



ビジネスの世界において、大半のヒット商品の寿命は三ヶ月であると言われています。それほど商品の寿命は短く、結果として製品も非常に多様化しています。これは音楽の世界でも事情は同じです。ポップスは言うに及ばず、アドリブ主体のジャズの世界でさえそうなのです。

アドリブは即興演奏だから、毎回自由に演奏してもよさそうなものですが、実際は違います。やはり、日ごろから練習を重ね、身につけたフレーズをその場の雰囲気や、他演奏者との呼吸や間、受け答え等によって組み替え、即興的に演奏するものであり、演奏する瞬間に全く新しいフレーズがひらめいて演奏できるわけではないのです。

いずれにしろ、人に知られるほどのプレイヤーなら、「これはしびれる!」と言われるアドリブを毎回演奏できなければなりません。

しかし、恐ろしいことに何度も試行錯誤し、練習をして作り上げたクライマックスでの「かっこいいフレーズ」も、ひとたびレコーディングしたら、二度と再び他の曲には使えないのです。また次の新鮮なフレーズを絞り出さなければなりません。他の曲でもそれを使ったら、「何だ、これはあの曲でも使ってたフレーズだな」と飽きられてしまうのです。勿論これは誰でも使う普遍的なフレーズのことではなく、その人独自のアドリブ・フレーズのことです。一度CDを聴いてみて下さい。一曲一曲のクライマックスに使われているフレーズはどれとして同じものはありません。

ミュージシャンは、いつも自分の音楽がヒットすることを願っています。しかし皮肉にも、レコーディングするということは、一瞬にしてそれが世間に広まるということであり、誰もがそれを手に入れ、知ってしまう、いわば新鮮なものでなくなってしまうということも意味しています。つまり、商品の陳腐化が早いのです。超一流のギタリストであるジョージ・ベンソンでさえ、「日々曲のアイデアを搾り出すのは大変だ」と告白しています。このようにジャズミュージシャンも、毎回血のにじむような思いをして新しい音を創造して行くのです。一流の商品としてヒットするためには、そのテクニックや音楽性(品質)は言うに及ばず、個性と新鮮さが命なのです。そういう意味では、ジャズも自転車操業ということが言えるのではないでしょうか。

フレーズだけでなく、演奏する「曲目」にしても、ジャズの場合、一回レコーディングした曲は殆どの場合、二度と吹き込むことはありません。というより、吹き込めないのです。なぜなら、一曲をレコーディングするに当っては、アレンジャーやミュージシャン、プロデューサー、ディレクターなどが構成を練りに練り、曲の解釈を徹底的に行い、仕掛けを作り、これ以上すばらしいものはできないというレベルにまで高めてレコーデイングに臨みます。

従って、それはかなりその人なりに完成度の高いものになります。その曲をまた演奏したら、構成が似てくるのは当然です。それではCDは売れません。人々は似たような商品は二つ要らないのです。新しいフレーズを新商品と考えれば、一枚のCDには大体五曲~一二曲くらい入るので、それぞれに異なった「かっこいいフレーズ」が必要になります。しかも、半年もCDを出さなければ、「このミュージシャンは売れていないのか」と思われ、ファンから忘れ去られてしまいます。ということは、一年に新商品を三〇も開発しなければならないという計算になります…。

ここまでやって名人と言われるミュージシャンになれるのでしょう。しかし、さらにその上があります。このように絶え間ないアイデアとの戦いを繰り返しているうちに、ついには「名人」から「達人」の域に達するのです。このレベルになると、他人がまねようと思ってもどうしてもまねできないほどのテクニックと個性を確立したミュージシャンになります。

弾き方は分かっても他の人には弾けない、あるいは弾けたとしても、その達人の個性となっているので、明らかに物まねになってしまう。かくて、他の追随を許さない圧倒的レベルの音楽を完成させるのです。商品でいえば、ブランドが確立し、指名買いが起こってくる段階です。かのジョージ・ベンソンも三~四年もかかって苦労の末にブランドと言える斬新なフレーズを完成させました。(かつてウエス・モンゴメリーというギタリストが、オクターブ上と下の音を同時に弾く「オクターブ奏法」を自在に駆使し、ジャズ界を席巻しましたが、ジョージ・ベンソンの場合は、さらにそのオクターブに五度の音を加え、自在にメロディーを弾くという離れ業をやってのけました。これをマスターしたときのことと思います。)

私たちが商品開発に挑戦するとき、神様に「アイデアを下さい」と祈っただけでは何もひらめきません。神様はその人の探求の態度を見ていらっしゃるのです。愛と真心をもって、しかも全身全霊を打ち込んで血と汗を流してやっているのか。そのような弛まぬ日々の精進努力の積み重ねがあってこそ、初めてハッとひらめくものがあるのです。音楽にも製品作りにも、否すべての分野において同じ、「天地自然の法則」が働いています。これが大道と言われるもののひとつの姿ではないでしょうか。


~利を見ては義を思う~



第二次世界大戦のさなか、兵庫県姫路師団の或る中尉がビルマ戦線赴任の命を受けます。死を覚悟した彼は、戦友の少尉に「じつは、終戦を迎えたら、子供のいない神戸の老夫婦の養子になる約束をしている。自分が戻らなかったら、その約束をかわりに果たしてくれないか」と話します。その後、中尉は戦死し、少尉は鳥取の実家の猛反対に遭いながらも、約束を守るべく、会ったこともない神戸の夫婦の家に養子となるのです。その養子先の姓は鬼塚。少尉二十九才の時でした。

この少尉こそ、戦後の神戸でゼロから事業を立ち上げ、「世界のアシックス」の名を不動のものにした株式会社アシックス会長・鬼塚喜八郎氏なのです。今回は、この鬼塚氏を紹介します。

アシックスのシューズといえば、あのマラソンの高橋尚子選手をシドニー五輪優勝に導き、「大会で履いたどの靴もマメはできず、身体の一部となった」と言わしめたものです。現在ではメジャーリーグのイチローを始め、瀬古利彦、ラモスなど数多くのスポーツ選手が愛用しています。このように優れた製品群は、一体どのようにして誕生したのでしょうか?

その答えは、氏の起業時の「志」に見出せます。氏は決して最初から靴作りをしていたわけではありません。養子入りした後の就職先は待遇も良く、鬼塚一家を支えるに充分な収入が得られました。ところが、社長の私利私欲に走る姿に我慢ができず、ある日辞表を叩きつけて退社します。再就職のあてのないまま、氏は戦友であり、当時兵庫県教育委員会保健体育課長の堀氏を訪ねます。

堀氏は、戦後の神戸の町には家も家族もなく、街を彷徨って荒れる若者達が溢れていることを取り上げ、「戦後の今、日本人の心の荒廃が問題だ。特に若者を真っ直ぐに育てる必要がある」と熱く語り出し、「健全な肉体にこそ、健全な精神が宿る。スポーツを盛んにすることが近道だ。荒んだ子供達がスポーツに打ち込め、健康になって夢や幸せを掴めるような靴を作ってみないか…」と話します。このひとことが鬼塚氏の心を大きく揺り動かし、彼に一大決心をさせるのです。

「これからの日本のため、若者の幸せのために、スポーツを広め、そのための靴を作るのだ」と。

氏はまず、靴作りを勉強するために、友人の紹介で某靴メーカーに就職します。そして氏は、絶えず「これからの靴」を見据え、どんなものが良いのかを考えながら、日々の仕事に取り組むのでした。「靴といっても、手広くしては大手メーカーにとても太刀打ちできない。先発メーカーが手をつけてなく、これから人気が出るスポーツはいったい何だろう」

ちょうどその頃、アメリカではバスケットボールが流行り始めていました。「そうだ、この一点にかけよう!」そう決意した氏は、毎日会社が終わると、神戸で一番バスケットの強い高校に通い、子供達にどんな靴が欲しいかを熱心に聞き廻ったのです。

その中で、さまざまなアイディアを纏めていきますが、肝心の靴の製造が出来ません。そこで思い切って或る日、勤め先の社長に、自分の考えた靴を作って貰いたい旨を頼むことにしました。ところが社長からは「なんで一従業員のお前の下請けになって、靴を作らねばならないのだ…」と、全く相手にされません。しかし、氏は決してめことなく、社の目をみ熱くり続けます。

「目標を失て青に靴をしてスポー興味持ってもらい、心身共に健全になってもらう。そて、夢や幸を掴んでもらい、将来の日本を支える素晴らしい若者になって欲しい…」

その氏の誠実さはついに社長の心を動かします。社長曰く、「わかった。作ろう。その代わり独立しろ。お前の下請けになってやる」

かくして四九年、氏は神戸の自宅で鬼塚商会を設立します。最初に作った靴は草鞋のようで、お世辞にも良い靴と呼べるものではありませんでした。そこで打開策を見出すべく、大胆にもバスケットボール界のトップに相談することにするのです。バスケットボール協会理事長である松本氏に、何度も試作品の靴を作り直しては見てもらい、試行錯誤を繰り返して製品化していくうちに、事業は少しずつ軌道に乗り始めます。

氏は、ただ靴を作るのではなく、常に使用者のニーズを考え続けました。バスケットをする子供の一番求める靴は、「足首が痛くなく、良く走れて良く止まれる靴」。
ではどうしたらその靴ができるのか…。ある日、氏の夕食の食卓に蛸の酢の物が出ました。それを見た瞬間、氏は閃いたのです。「蛸の吸盤だ!」

早速、靴の底に蛸の吸盤状のソールをつけたところ、止まり過ぎるほどの靴が出来て、大好評を博します。その靴は「オニツカタイガー」と名付けられました。ところが、良い商品が出来たのにも拘わらず、ブランド名が行き渡らないために、売上は一向に伸びません。そこで、自分の足で全国の高校や小売店を歩き、販路の拡張を計ることにしました。ここで強力な武器となったのは、前述の松本氏の推薦でした。業界のトップが勧め、強いスポーツ選手が使用すれば、皆それを使いたがり、口コミでその噂は広がります。氏の地味な活動は徐々に広がり、バスケットボール界に「オニツカタイガー」の名を知らしめることが出来たのでした。

ところが設立三年目に、今度「手形が落ちない」という危機に直面します。思い悩んだ氏は、製造元のキングゴム社に、「自分を社員とて雇ってしい。給料の分は借金返済に使い、残りで義父母を養うことを許して欲しい」と懇願に行きます。社長は驚き、「不渡りになる前に謝罪に来て、自分で働いて借金を返すという人物なんて、これまでに見たことがない」と、氏の人柄に感動し、「その分は自分の持ち金から出す。不渡りには絶対させない」と約束してくれたのでした。

その危機を乗り越えた後、氏は以前にも増して精力的に働くようになります。そして、氏の熱意は社員にも伝搬し、社員自らが身を粉にして働く社風に変わっていったのです。

バスケットシューズに特化して成功した後、氏はマラソンシューズの制作に取りかかります。一九五〇年代当初、マラソン選手の常識とされた「足の裏にマメの出来る事象」に疑問を持った氏は、人間工学、医学、運動力学、新素材などを徹底的に研究し、一つの回答を得るのです。それは「マラソン時は、足に通常の三倍の体重がかかり、それが熱になって身体に影響し、マメができる」ということでした。「これを何とかして冷やす方法はないか」

氏は寝ても覚めてもこの命題に取り組み、ついに足の甲側に目の粗い布を使い、前と横に穴をたくさん開けて、風の抜ける靴を作り出します。

それは、足が着地する瞬間に熱い空気が靴内から抜け、足が地面から離れる瞬間に冷たい空気を中に流し込む「循環システム」を採り入れた靴です。この試作品を何人かのマラソンランナーに実験的に履いて走ってもらった所、なんと全くマメは出来ませんでした。この「オニツカタイガー」のマラソン靴は、五六年のメルボルン・オリンピックにおいて、日本選手の正式シューズとして採用されました。こうして、「オニツカタイガー」ブランドは日本中に一挙に知られることになり、スポーツ靴を通して日本の若者達に夢と希望を与えたい…という氏の夢は、その一部が実現したのです。

その後、創業十周年式典において、会社は公器であり、社員や社会と共に発展させる宣言をした氏は、自らが一〇〇%持っていた株の七十%を従業員に分配し、東京オリンピックの年に上場を果たしました。しかし、その上場の年に、新たな危機が訪れたのです。経営を任せていた副社長が経営多角化に走り、ことごとく失敗。株価は額面を割り、投資家からは大非難を浴びました。やむなく複数の企業に謝罪に行きますが、意外にもほとんどの企業が「いや、あなたとなら一緒に倒れて悔いはない」と言ってくれたのです。その信用力に驚いた銀行群はこぞって支援に乗りだし、この危機も見事に乗り越えることができたのです。これもすべて、氏の日頃の誠実さによって救われたことと申せましょう。

七七年、氏はスポーツウェアのジィティオとニットウェアのジェレンクと合併を行います。ここにスポーツ用品総合メーカーの「アシックス」が誕生します。アシックスとは、ラテン語の格言「健全な精神は健全な肉体に宿る(AnimaSanaInCorporeSano)の頭文字を抜き出したものです。まさに氏の夢そのものです。この三社の規模には格差がありましたが、合併時の立場は対等でした。元「オニツカ」の役員にはこれを不満とする者もいましたが、氏はこう言いました。「人材が平等、公平に活かされてこそ、新しい企業に生まれ変わる…」

こうして氏は、高い信頼を得た「オニツカブランド」もあっさり捨てたのです。

現在、アシックスは国内十七社だけでなく海外にも十三社の現地法人を持つ国際企業に成長しました。

孔子の言葉に「利を見ては義を思う」とあります。氏は利に直面した時、それが義に叶っているかどうかをまず考えます。それは買い手にとって、社会にとって良いものかどうか…。そしてその義に叶うものだけを開発して製造し、販売してきました。その氏の誠実な人柄が、社員を動かし、協力メーカーを動かし、買い手を動かしているのです。数々の倒産の危機にも見舞われましたが、その都度、氏が周りから信頼され、助けられて来たのは、この精神を元につねに行動してきたからではないでしょうか?

「義を思う」氏は現在、スポーツ、国際交流、地域社会他多数の団体の要職に就き、「生涯現役」の精神で精力的に活躍し続けています。


~日本のモノ作りに関して~



一八五三年、アメリカ艦隊を率いて浦賀に来航したペリー提督は、幕府に開国を迫りました。日本人は煙を吐く巨大な黒船に圧倒され、自国と欧米との技術力の差を知らしめられると共に、危機感を抱きます。こうして日本は、明治維新という「激動の時代」に突入していくのでした。

ところでこの時に驚いたのは、日本人だけではありませんでした。実のところ、ペリー提督自身も日本人のモノ作りの技術の高さに驚嘆していたのです。その事実は当時、ペリー自身が記した「ペリー提督日本遠征日記」が物語っています。
「機構製品、および一般実用製品において、日本人はたいした手業を示す。(中略)彼らの手作業の技能の熟練度は、驚くほどである。また、日本人の手職人は世界のあらゆる国の手職人に劣らず熟達している。よって国民の発明力が自由に発揮されるようになったら、最も進んだ工業国に日本の追いつく日は、そう遠くないだろう…」
「他国民が発展させてきた成果を学ぼうとする意欲が旺盛で、学んだものをすぐに自分なりに使いこなしてしまう。だから、国民が外国と交流することを禁止している政府の排他的政策が緩められれば、日本はすぐに最恵国と同じレベルに達するだろう。文明化した国々が積み上げてきたものを手に入れたならば、日本は将来きっと機構製品の覇権争いで強力な競争国となるだろう」

そして今…。ペリー提督が予測した通り、日本は一流の工業国にまで成長しました。
発展の主なる理由は、ペリーの指摘した日本人の「技能」と「修得力」と申せましょう。以前は、この「修得力」ばかりが取り沙汰され、日本の工業製品は「猿マネ」と批判されたこともありました。しかし最近は、逆に「技能」、とくに伝統工芸や高度な職人技を持つ中小企業が世界中から注目されています。このように、ペリーを驚かせた日本の技能こそが今なお姿を変え、モノ作り日本の根幹を支えているのです。

従業員が僅か六名の岡野工業は、金属板を何段階もプレスして細長い容器を作る「深絞り」という技能をもって、携帯電話やノートパソコンの小型化を可能にしました。そして今では、日本のハイテクを支える超一流企業として、従業員一人当たり一億円以上を売上げるまでになってます。

熊野筆の白鳳堂は、書道筆を作る「さらえ取り」という伝統工芸の技をもって、世界中の高級ブランド化粧筆の、なんと六○%を占めるまでに至りました。

また、高知にある「ニッポン高度紙工業」という会社は、八代続いた和紙作りの職人技を生かし、電子部品であるコンデンサーの絶縁紙を作製して、全世界シェアの七○%を誇っています。

その他、歯医者が使うデンタルミラーで世界シェア三○%を誇る岡本硝子や、金属を曲げて鍋やフライパンを作る「ヘラ絞り」という手法で宇宙ロケットの先端まで作ってしまう北嶋絞製作所など、伝統工芸と職人技を以て、「工業国ニッポン」を支えている中小企業は今なお数多く存在しているのです。

もちろん、日本を代表する大手企業にもその片鱗は随所に窺えます。

その筆頭に挙げられるのが村田製作所です。この会社は、パソコンで使われる電子部品セラミックコンデンサーの世界シェア四五%を占めるなど、ハイテク分野の超一流メーカーですが、その源流は日本の伝統工芸「清水焼」にあったのです。陶器作りの伝統技術が、セラミック技術となって大きく開花しているわけです。

また、世界のトヨタ自動車にもそれは見られます。車のボディーを作るプレス用金型は、今でも職人の手によって作られています。コンピューター化が進み、金型の多くが自動で作られるようになった今でも、最後の仕上げは千分の一ミリの歪みやシワをも捉える職人の手に依らなければ、あの美しい自動車の流線型が描けないのです。まさに、日本のモノ作りは、日本人が先祖代々積み重ねてきた伝統工芸や職人技の上に成り立っているといっても過言ではありません。

ところで今、この日本のモノ作りが危うい…と警鐘を鳴らす人物がいます。それは、光通信の発案者であり、静電誘導トランジスタの開発を手がけ、「ミスター半導体」と呼ばれる西沢潤一氏です。西沢氏は、今の教育システムではモノ作り日本を支えている伝統工芸や職人技を引き継ぐ後継者が育たないと指摘します。
「学校では今、数学は理解するものでなく、暗記するものだと先生が教えている。また、化学の実験は危ないという理由で行われなくなり、工作でよく使われた“肥後守”というナイフも見かけなくなってしまった。暗記も偏差値も必要だが、それだけでは創造力のある子が育たない…」

最近、ゆとり教育による子供達の学力の低下が問題となっていますが、西沢氏は子供達の創造力の低下によって、日本のモノ作りの衰退を危惧しているのです。

一五○年前、ペリー提督が指摘した日本人の「技能」と「修得力」こそが、日本を超一流の工業国たらしめていることを改めて認識し、これらを次世代に伝えるべく、創造力を伸ばす機会や場所をもっと作ってあげることが今の日本にとって、大切なのかも知れません。

「技能」と「修得力」を受け継いだ世界に、比類無き技術者や会社が次々と生まれ育ってこそ、日本が一流の工業国として繁栄し続けるのですから…。


~どこでもコンピュータ~



国内におけるパソコン普及率は五〇%を超えましたが、未だ自宅にパソコンがない…という方も多数いらっしゃることでしょう。しかし私たちは、知らないだけで毎日何らかの「コンピュータ」に触れています。それは、「カーナビ」や「冷蔵庫」、そしてビデオデッキなどの「AV機器」、また「携帯電話」など、日常的に使用する家電機器にはほとんど、コンピュータが組み込まれているからです。

ところで、いくら家電機器に組み込まれているコンピュータといえども、それを動作させる基本ソフト、つまり、パソコンでいう「ウィンドウズ」のようなソフトが必要になります。

その家電用基本ソフトで圧倒的なシェアを誇るのが、日本製の「TRON」(トロン)です。この「TRON」は、去年のNHK番組「プロジェクトX」において、「家電革命トロンの衝撃」と題して放送されたので、ご存じの方も多数いらっしゃるのではないでしょうか。今年は、「TRON」プロジェクトが提唱されて20周年に当たることから、再び今、「TRON」が脚光を浴びてます。
「TRON」は、1984年に、東大の坂村教授の提により開がま。想気に、こでも何も搭載る基本フト」で、その上、その仕様を無償で企に公開する…とうものです。

「TRON」の基本ソフト能力は、その当時の外国製基本ソフトに比べ、群を抜くものでした。その一例を挙げると、パソコンは通常、電源を入れてから基本ソフトが稼働するまでに数分掛かります。しかしこの「TRON」は、スイッチを入れるとすぐ動くように設計されており、今ではその特性が携帯電話や家電などに活かされ、採用されているのです。

その後、大手メーカーは次々と「TRON」を搭載したパソコンを完成させ、1989年には、文部省が小中学校のパソコン教育に「TO」を使用することを決定していました。ところがここで、アメリカ政府の思わぬ圧力がきっかけで、「TRON」のパソコンは頓挫してしまいます。それは当時問題になっていた、日本とアメリカの貿易摩擦によるもので、アメリカ政府は日本製の車とビデオデッキと一緒に、「TRON」を標的にしてきたのです。つまり、「TRONを学校教育用パソコンとして採用したら、日本からの輸出品に報復関税をかけたり輸入制限をしますよ…」という、内政干渉に外ならぬ通達をしてきたのです。こうして国内の電気機器各メーカーは、「TRON」パソコンの開発からの撤退を余儀なくされます。
「情報化社会で主導権を握りたいアメリカが、自国の基本ソフトを世界のスタンダードにするために、性能面で圧倒的に優れていたTRONを潰そうとした…」という見方が今では一般的ですが、消費者の立場で見ると、ちょっと違う見方も出来るのではないでしょうか?

それは、「TRON」を搭載したパソコンが、他のパソコンに比べて魅力的な商品だったかどうか、という問題です。つまり、アメリカ政府の圧力の有無に関わらず、「TRON」搭載のパソコンが一般消費者にとって魅力的な商であれば、もっと世間は認知し、人気商品の座が確立出来ていたのではないでしょうか。

ビデオ規格においては一昔前までは「VHS」対「ベータ」という図式ありまし。画質や声の美しさを考えると、「VHS」は「ベータ」に比べて数段劣ります。しかし消費者は、結果として「VHS」を選択したのです。つまり消費者にとっては、商品の性能よりも、それが自分にとって魅力的であるかどうか、使いやすいイメージがあるか否かが、選択の第一等の基準になるのです。

ですからもしあの当時に、日本国内の各企業が本腰を入れ、「TRON」パソコンはこんなに便利で使いやすい…という、消費者側に立って魅力的な販売戦略を打ち出していたら、きっと「TRON」パソコンが停頓することはなかったでしょう。

このように、パソコン向けの「TRON」プロジェクトは、さまざまな要因でその発展を阻まれますが、前述のようにパソコンの基本ソフトではなく、家電製品や携帯電話の「組み込み基本ソフト」としては、確実にシェアを伸ばしてきたのです。

これはまさに、「TRON」自らが持つ、「どこでもコンピューター」という基本理念が成し得た自助能力と言えるかもしれません。

そして現在、「TRON」は「どこでもコンピューター」という基本理念を踏まえ、新しい時代を迎えようとしています。

トヨタは車のエンジン制御に「TRON」を採用し、国内外の各企業は挙って、携帯電話を使って自宅の家電製品をコントロールするシステムや、次世代ICカードのセキュリティシステムを「TRON」で開発しています。また、コンピューターソフトで圧倒的シェアーを誇る「ウインドウズ」の開発・発売元であるマイクロソフト社も、去年、自社の家電用組み込み基本ソフトの開発で「TRON」との提携を発表したのです。

「TRON」プロジェクトが始まってすでに20年経ちましたが、当時からの基本理念である「どこでもコンピュータ」は、社会的にますます加速の兆しを見せています。無償で公開された「TRON」の現在までの経済効果は、10兆円とも言われ、これからその役割も、全世界的に、今まで以上に拡大していくことは必至です。
「その仕様を無償で企業に公開する」という、人類全体の発展を願う理念に支えられた「TRON」。私たち日本人は、このような「現代の世界財産」に誇りをもち、一個人や、一企業、また、一国家を超えたところで人類の発展と躍進に大いに貢献したいものです。


~失敗は成功への出発点~



企業活動において、新商品開発の失敗や市場戦略の見誤りは、致命的な結果になることがあります。しかし時折、その失敗が新しい商品を生み出したり、起死回生の一手となることもあるのです。

皆様も、「ポストイット」という商品をご存じだと思います。ちょっとしたメモを書いて、あらゆるところに貼れ、なおかついつでも剥がせる非常に便利なものです。しかし、この商品は、驚くことに失敗の産物だったのです。

「ポストイット」は、アメリカの「3M」が発売したものですが、実はその当時、「3M」は、「絶対に剥がれない強力な接着剤」の開発に力を注いでいました。ところが、開発の手順に誤りがあり、出来上がった接着剤は、「ある程度の接着力はあるが、すぐに剥がれてしまう」という代物でした。「3M」の経営陣は、「こんなもの商品にならない」という判断で、この接着剤をお蔵入りにしました。ところが、その開発に携わったある社員がふとしたことから、画期的な使用方法を見出したのです。

彼の机の上には常々、電話を受けたメモや、予定が記入されたメモが散乱しています。それに仕事上のファイルが折り重なって、時折大事なメモを無くしてしまいます。そこで彼は、その没となった接着剤をメモの背面に塗り、見やすいように、自分の机の前にある壁に貼り付けていきました。そして貼ったり剥がしたりを繰り返しているうちに、ハッとあることに気がついたのです。それは、『大事なメモを目立つところに貼り、それが要らなくなればすぐに捨てることが出来る、また、優先順に簡単に貼り替えることも出来る。』

これを期に、彼の仕事の能率はぐんぐん上がって行きました。そしてこの使用法は、まず、「3M」社内で大評判となり、それが上司の目にも留まることになって、ついに販売会議で商品化が決定されました。そして発売と同時に大ヒットとなったのです。

また、市場戦略の見誤りが最終的に成功を生み出した例として、「パイオニア」という会社が挙げられます。

「パイオニア」というと、皆様の中ではまず、オーディオ製品メーカーというイメージが涌くのではないでしょうか。そのイメージに洩れず、「パイオニア」は、オーディオ関連製品、中でもカラオケ用機器で1980年代の後半、市場シェアの60パーセントを占めていたのです。その頃の「パイオニア」の急成長の影には、レーザーカラオケの普及がありました。これはカラオケで歌いながら、映像も楽しめるという、発売当時の市場のニーズに完全にマッチしていたものでした。カラオケの、映像と音が入ったレーザーディスクと、それを再生するためのプレイヤーのニーズは、当分勢いが止まらないだろうと、当時の「パイオニア」は考えていました。

ところが、90年代に入ると、「通信カラオケ」が登場し、カラオケ市場でシェアを徐々に伸ばし始めます。「通信カラオケ」は、センターで作成したカラオケ用のデータを、電話回線を通じて、契約しているカラオケ店に送るというものです。これは、映像とカラオケが一体となったレーザーディスクが、制作にかなりの費用と時間を費やすのに比べ、発売されたばかりの新曲を短期間のうちに、しかも比較的安い経費で配信出来るという、画期的な商品でした。これによって、今いちばん消費者が歌いたい!と願う新曲が、わずか数日の内に、全国のカラオケ店で歌える仕組みになっていたのです。

この「通信カラオケ」の出た当初、「パイオニア」は映像のないカラオケなど人気が出る訳などない、と思っていたのですが、あっという間に「通信カラオケ」は、市場を席巻してしまったのです。「パイオニア」の判断は、完全に誤っていました。

その後、「パイオニア」は巻き返しを図るべく、アルファ(α)システムという、映像とカラオケをCDサイズにまとめたものを発売しますが、シェアを回復するには至りませんでした。そしてついに、1996年には経常赤字に転落、社員千人のリストラを余儀なくされます。

しかしここから、「パイオニア」の大復活劇が始まるのです。「パイオニア」はまず、当時まだ新しい分野だったDVDに目を付けます。そして、前述のアルファシステムで培った技術が、DVDに流用出来ることが分かり、即座にDVDプレイヤーの開発に取り掛かります。そして1996年に、東芝、ソニーなどとほぼ同時に家庭用DVDプレイヤーを発売し、国内シェアトップに躍り出たのです。これには、過去築き上げてきた、大手量販店や問屋との信頼関係が、「パイオニア」にとって相当有利に動いたようです。翌年には、国内初の記録型DVDを発売、現在ではパソコン用DVDドライブのシェアが全世界で25パーセントを超え、世界シェアトップになっています。まさに、DVDへの戦略変更が、「パイオニア」にとって起死回生の一打となったのです。

まさにこれらの二つの出来事は、なにがなんでも諦めない粘り強さこそが、成功を導く不文律であることを指し示すともに、私たちに勇気と希望を与えてくれる事例ではないでしょうか。


~試練は快感である!~



「世界へ羽ばたきたい!」という夢だけをたよりに、自ら会社を興し、一代にして世界レベルの会社にまで育てた人物がいます。

「エーデルワイス社」会長の比屋根毅さんがその人です。

比屋根さんは一九二九年、沖縄県石垣島に生まれました。幼い頃より「世界各国を回りたい…」との夢を抱いていた比屋根さんは、十五歳のときに無線通信士をめざし、那覇へ行きます。昼間は資格取得のための勉強を、夜はラジオ商店の店員をしながら二年ほど過ごしました。

しかし彼は、もっと広いところで世界を見たい、という切なる思いに駆られ、十七歳で神戸に向かいます。そしてある時、バイト先のお菓子屋で「お菓子屋になったらどうだ。お菓子の本場のヨーロッパに行かせてあげるよ」と声を掛けられるのです。比屋根さんはこの一言で洋菓子の道に進むことを決意。そこでは昼間のつらい修行に加え、夜も工場に残り床掃除をしたりと人一倍働きます。また日常の仕事が終わってからも、寝る間も惜しんでお菓子作りの研究を続けたのでした。

さらに比屋根さんは、この人が日本で最高の専門家だとされる人のところには、全国どこへでも行き、教えを請いました。たとえば、チョコレートの専門、ケーキの専門、ディスプレーの専門といったその分野で日本一といわれる人々に直々に教えを請いにいったのです。しかも、その間の給料はなく、交通費や宿泊代など、すべて自前で行いました。「自分への投資です」と語る比屋根さんですが、そのポリシーは作品にも顕著に現れていきます。特に注目すべきは、一九六五年秋田市で開かれた全国洋菓子大博覧会での作品です。大阪城の五十分の一の縮図を表現した洋菓子で、制作日数は五十五日、制作費は二十五万円でした。「当時のサラリーマンの初任給の約十倍です。今ではよくそんなことしたなと思いますが、自分の金を出すのは損だ、などという考えは全然ありませんでした」。

この作品は、五万点余もの作品の中から洋菓子工芸文化大賞という優勝作品に選ばれ、比屋根さんの実力を広く全国に認めてもらう最初のきっかけともなったのです。以降、比屋根さんは洋菓子界日本一の実力者として、マスコミ、メディアからも大いに紹介されることになります。

そして一九六九年、いよいよ比屋根さんはエーデルワイス社を創立。しかし設立当初は、一日の来客数がたったの四人ほどという惨憺たる日々が続きます。開業半年ほどで店を畳もうかとも思いますが、あるときふと良いアイデアが浮かびました。

比屋根さんは以前、生活のために教えていた空手の弟子達を使い、大阪の戎橋という橋の上で、パン箱にケーキを並べ売り込んだことがありました。そのときの経験を思い出した比屋根さんは、ためらうことなく「あのときのように外に売りに行こう」と決意。盛んに街頭に出て販売をしたり、旭硝子、神戸製鋼、住友クラフトといった近くの大企業にも積極的に売り込みにいったのです。この作戦はみごと功を奏し、多くのファンを獲得していくことになりました。

一九七二年には売上額十億円を達成。以もさざまなヨーロッパの洋菓子店との交流を深めいく中で、門の名な菓子社、イス、ベルギー等の会社とも携をてきその年は、ードケーキフェアーにてグランプリを受賞。一九九二年、第五回全国洋菓子展大品評会では内閣総理大臣賞を、また第一回世界の洋菓子コンクールでは最優秀賞、さらに二〇〇一年ジャパンケーキショー東京では、味と技のピエスモンテ部門グランプリ・連合会長賞を受賞するなど、その技術はまさに世界トップレベルにまで達していったのです。

このように現在では、世界的な評価を得る会社として成長したエーデルワイス社ですが、比屋根さんは創業以来、何度も何度も試練があったと語ります。ある時期には、心労で円形脱毛症になり、顔には黒い斑点もでき、三年間は人前に出られない状態が続いたとも。しかし比屋根さんは、どんな苦境のなかでも、それを単なる試練とはせず、常に前向きにとらえ、乗り切っていったのでした。

比屋根さんは、「試練」のとらえ方についてこう語っています。「僕は試練にあったときはいつも思うことがあるんです。神様は僕を一回りも二回りも大きくなれよということで、この試練を与えてくれいているんだと。そう思った瞬間から、試練を快感に感じるんですよ」。
―試練を快感に感じる―

凡人にはとうてい思い至らない境地ですが、こういった考え方は、比屋根さんがいくつもの壁を乗り越えていくなかで自然に身に付けていったものなのでしょう。

さらに、こうも語ります。「うちの会社の社是は『忍耐と信用』ですが、耐えて、耐えて、耐え抜くとところから信用はついてくるのではないかと思います。社員に一番口やかましく言うのは、苦しみの中からしか、人間としての成長はない。楽をしようとしたら、神様は絶対にいいことは与えてくれないということです」。

風雪に耐え、岩場でもしっかりと根を張り、美しく咲き誇るの花のように…との願いを込めてつけられた社名「エーデルワイス」。その社名は幾重にも重ねられた忍耐と研究のすえ、大きく花開いた比屋根さんの人生そのものを表しているかのようです。


~皿洗い、ほめら陸上日本一~



あるところに、懸垂が一回もできない中学一年生がいました。鉄棒にぶら下がって「う~ん」ドテ。その少年が三年間で、二〇キロの重りを担ぎ二〇回の懸垂を三セットできるようになりました。そして中三の時、全国中学生陸上大会砲丸投げの部で見事に優勝し、日本一になったのです。

彼は普通の公立中学生でした。彼がしたことは、放課後四時から六時までの陸上部の部活に参加する。家で皿洗いをする。それだけです。彼だけではありません。彼のいた大阪市立松虫中学校陸上部は七年間で、全日本大会でのべ八〇種目に出場し、五三種目に入賞。うち日本一に一三回輝いたのです。ではなぜ、それほどまでの成績を納められたのでしょうか?それは、彼等を指導した教師に秘密が隠されていたのです。

今回、生徒の持つ潜在能力を引き出す教育に二〇年をかけた教師、原田隆史氏を紹介したいと思います。

原田氏は学生時代から、吉田松陰の松下村塾に惹かれ、「日本を支える志を持つ若者の教育」という理想に燃えていました。かといって、最初から陸上日本一の生徒を養成しようとしたのではありません。教育の厳しい現場で試行錯誤を重ね、結果としてその道が開けたのでした。

京都教育大学卒業後、大阪市立H中学に赴任した当時、原田氏は、「優しくて生徒に好かれる教師」になる期待で一杯でした。ですが、その夢は初日から壊されます。茶髪にピアス、変形制服を着た生徒。ろくに挨拶もせず、授業が始まっても着席せずしゃべる、音楽を流す、、三階から窓越しに椅子を落とす。まさに荒れた中学校の典型だったのです。原田氏は決心します。「まずはこの生徒達を変える。」そして期待とはかけ離れた「厳しい教師」の道を選んだのでした。

原田氏は、忘れ物や遅刻から厳しく指導しました。遅刻を取り締まり、それでもだめなら生徒の家に泊まりに行きます。そこまですると生徒が遅刻しなくなる。まさに体当たりの指導でした。また、頻繁にあった他校の生徒との抗争がひどい時には、警察を呼びさえしました。一部の保護者や学校から反発も受けましたが、徹底的にやりきったのです。三週間で校内が変わり始め、四ヶ月後には、生徒の外見も中学生らしくなり、挨拶できる生徒も増え、H中学校はみちがえるほどになりました。

生徒指導に自信を持ち始めた三年目、衝撃的な事件が起こります。生徒の一人が、家庭内暴力で思い詰めた家族に殺されたのです。おとなしい生徒で、家庭内暴力には気づきませんでした。原田氏は、「問題がある生徒ばかり気にしていて、一見大丈夫そうな生徒の大事に気づかなかった。保護者からの相談もなかった。」と思い悩みました。そして教師を辞めようとまで思った時、母親から言われます。「辞めたかったら辞めてもいい。でも、逃げたいがための転職なら止しなさい。まずは自分を変えなさい。」普段なにも言わない母親からの初めての説教に、原田氏は目が覚めます。そして転勤願いを出しました。「もっとしんどい学校に行かせて下さい。」

そして、更に荒れたS中学校に赴任し、数々の苦労を経て、次に、当時最も荒れていた松虫中学校に赴任します。そこで原田氏は、他の教師達を巻き込んで、生徒の暴力等のマイナスのエネルギーを、部活を通じてプラスに変えるべく尽力し始めます。教師同士で協力し、部活の分担を決め、原田氏は陸上部を担当しました。原田氏は必死で取り組みました。「本気で取り組まなければ人が死ぬ。」それを経験していたからです。

ところで、生徒はどうして荒れるのでしょうか?生徒達に欠けていたのは、自信と人を思いやる心でした。本当は皆、それに飢えていたのです。でも誰も教えてくれません。エネルギーを持て余し、楽しくもないのに仲間に同調してタバコを吸い、バイクに乗って紛らわします。そのマイナスエネルギーを、ほめられて自信をつける、目標を達成する、他者を思いやって喜ばれる、というプラスエネルギーにかえ、「自立型人間」にする必要があったのです。

原田氏は、様々な書籍を読み、生徒を変える道を模索しました。教育や陸上だけではなく、哲学や心理学、経営その他の知識を得、教育の実践の場に活かすよう尽力します。寝る時間はほとんどありませんでした。その中で学んだことは、「体力・学力を伸ばすには、いずれにしても、まずは『心を鍛える』ことが大切」ということでした。そして、具体的に実践していったのです。

まず原田氏は、それぞれの生徒に役割をつけました。砲丸を用意する係、ラインを引く係等を担当させ、ちゃんとやったら、生徒が期待する以上にほめます。ほめられたら自信がついて、自分で工夫しようとします。生徒にやらせるばかりではなく、自分も模範を見せました。陸上大会では生徒に清掃をさせますが、一番嫌なトイレの便器掃除は自分がやる、などして「生徒と共にする」ことを心掛けました。生徒はその思いに応えてくれたのです。一方家庭では、皿洗い等家事の手伝いをさせました。必ず毎日励行させ、終了したら電話をかけさせます。こうすると、生徒は家でもほめられます。「やりきった」という自信がつくのです。全てにおいて、どんなことでも「やりきらせる」ことで、自信をつけさせました。それと同時に、自分の考えを具体化させるため、全生徒に日誌をつけさせました。しかし日誌も、最初から上手くは書けません。何度も書き直させ、自分で考える力をつけました。全日誌を毎日チェックし、全てにコメントを書きます。また、陸上や勉強の目標用紙を書かせました。短期、中期、最終と目標を出させ、そのために必要なこと、してはいけないことを書くことで、自分の目標への道を具体化します。必要なことの中には、他の選手を励ます、という項目もあります。お互いを思いやり、励まし合う。そして、自分が目標を達成した時も、「おかげさまです」という気持ちを持てるようにさせました。まずは達成可能な短期目標からめざす。そして達成したらほめる。その繰り返しの中で、生徒は自信をつけ、自主的に工夫する力、他を思いやり他も育てる力を育むようになるのです。「やれば自分でもできる」という経験を重ね、陸上の記録も、学力も伸びました。そして体力、学力、人間性ともに成長した生徒達は、次々に陸上日本一を勝ち取っていったのです。

このように、「自立型人間」を育てる教育に全身全霊をかけた原田氏は、今年教諭を辞め、天理大学で、教育者を目指す大学生達に教職論を教えています。他校からも多くの聴講生がやってきます。皆、「教育」に希望を持つ学生です。教師一人一人が真剣に教育の現場で生徒と向き合い、生徒を育てあげることができたら、この日本はどんなにすばらしくなるでしょうか。なぜなら、子供達は次世代の日本を支える人材だからです。原田氏には、教育関係だけではなく、企業からの講演依頼も数多く来ます。それはなぜでしょうか。原田氏の目指す「自立型人間」は、実は企業にとって必要な人材であるからです。

松下村塾を夢見た青年は今、その「日本を支える人材の教育」という夢を実現すべく、深い経験を基に、幅広く飛び回っています。


~世界を震撼させた士魂商才~



人類にとって石油は最も重要な資源です。車から家電、日常品、電気エネルギーに至るまで、いまや私達の生活は石油無くして成り立ちません。この石油資源を巡って、これまで世界各地で多くの争いが起こりました。

実はイラク戦争も、アメリカの石油が数年以内に尽きるため、石油確保にイラクを攻めたという噂もあります。また最近、日本に対して英国が、テロ支援国であるイランの油田開発を中止せよと圧力をかけて来ました。このように、石油は国家の興廃に影響を及ぼす重要な資源なのです。

ところで、この石油業界には、各国の政治にまで影響力を及ぼす、「メジャー」と呼ばれる超巨大企業群が存在します。それは、モービル、エクソンなど石油の発掘から精製、販売までを行っている巨大企業で、彼らは自分たちの立場を有利に計るための業界規定を締結していたのです。

かつて、この実質的に石油業界を牛耳るメジャーと対峙し、日本の石油確保のために大いに活躍した人物が、日本にはいたのです。その人とは、あの出光興産の創業者、出光佐三氏なのです。

一八八五年、出光佐三氏は、宗像大社のある福岡県宗像郡赤間で生まれました。佐三氏は幼い頃より病弱でしたが、勝ち気な彼は闘病生活の中で、さらに強靱な意志力と反骨心を練り上げます。ところが彼の気魂は時として暴走し、福岡商業時代には学生ストライキの首謀者となって、学校側を屈服させるまでに至るのです。問題児のレッテルを貼られた出光氏でしたが、下から二番目の成績で何とか福岡商業を卒業し、神戸高等商業(現・神戸大学)に進学します。神戸高等商業では、初代校長の水島鉄也氏に「黄金の奴隷になるなかれ」という薫陶を受け、これを彼は終世、座右の銘とし、行き貫くことになるのです。

一九○五年、出光氏は大学卒業後、機械油を扱う酒井商会に就職します。そして油の商いに携わった出光氏は、これから石炭に変わって石油の時代が到来することを予見し、一九一一年、弱冠二十七歳にして出光商店を創業することとなります。彼は、油に対して或るアイデアがありました。それは、機械の種類によって油を変え、機械の性能を最大限に引き出す…というものでした。さまざまな試行錯誤の末に開発された「オーダー油」は、機械別に見事に調合供給されたもので、当時の市場の大人気となります。そして、今まで石油市場を独占していたメジャーの油を押し退け、日本、満州、朝鮮、台湾と、石油市場を次々に席巻して行くのです。

この「オーダー油」によって、出光興産は大企業へと一気に成長します。しかし日本は、太平洋戦争へと突入し、出光興産も戦争に巻き込まれることになるのです。

そして一九四五年、日本は終戦を迎えました。一時は大企業にまで成長した出光興産でしたが、戦争によって国内外の精製所や石油プラントなど、国内外の資産は全て奪われてしまいました。残されたのは、二六○万円の借金と約千人の従業員だけ…。
そしてさらに悪いことには、戦争からは八百人の社員が復員して来ることとなったのです。誰がどう考えても倒産しかありえないこの状況下…。しかし、出光佐三氏は持ち前の強靱な精神力と信仰心をもって、あの「全員首魁せず」という方針を打ち出し、リストラ無しの会社の復興を決断するのです。

出光興産は、旧海軍の廃油の回収、農業、印刷業、ラジオ修理など、とにかく出来ると、考えつくことを、なりふり構わず全て実行します。

しかしこれら新事業は、窮地を時的に凌ことはでても、軌道には乗ませんでした。こ、ジオ理事業よて得た全五十所の支店は、後の石の販売網の伏線となります。

こうして絶体絶命の危機を脱した出光でしたが、佐三氏は自らの仕事の原点である「石油事業へ復帰」を懐に秘め、日夜生業に励んでいたのです。

当時、世界の石油業界は相も変わらずメジャーが独占していました。しかしながら、中東の石油産油国はメジャー支配からの打破を目論み始め、ついにイランは、英国との抗争に突入するのです。

一九五三年、世界中がメジャーと産油国の争いで中東に注目している中、なんと出光は拿捕を覚悟で極秘裏に、イランに石油タンカー「日章丸」を派遣します。そして、世界で初めて産油国より直接石油の輸入を成功させるのです。このメジャーを通さずに石油を輸入する!という出光の偉業は世界を震撼させ、産油国との直接取引の先駆けとなります。敗戦で自信を喪失していた日本国民は、メジャー独占状態を打ち破ったこの出光の快挙に、日本の出光が世界のメジャーに一矢報いたのだと大感激したのです。

この様に出光佐三氏は、持ち前の反骨精神で日本の石油事情を担ってきたのです。金銭欲ではなく、日本民族のため、たとえ非難されようと断じて行ってきた出光氏の強靱な意志力の背後には、常に宗像大神への信仰がありました。会社に宗像大社の分社をお祭りし、神と共に世界を舞台に奇跡を起こした出光佐三氏は、終生「社長」ではなく「出光商会の店主」を貫いたそうです。そんな出光佐三氏を、人々は神と共に生きた「士魂商才」の事業家として今なお語り継いでいます。この出光佐三氏の生きざまは、私たちに感動と生きる息吹を与え、神と共にあることの偉大さ、経営者のあり方を教え示しているのではないでしょうか。


~相撲の世界に見る給与体系~



実力主義の最たる世界であるプロスポーツ界。今回は、その中でも最も古い伝統を持ち、日本の国技でもある相撲の世界をのぞいてみましょう。

相撲の起源は、遠く日本書紀に求めることができます。第十一代垂仁天皇の御前で野見宿弥と当麻蹴速が日本一を争ったと記されています。結果は野見宿弥の勝ち。当麻蹴速の肋骨を折り、さらに腰の骨を折って絶命させたといいますから、まことにすさまじい限り。当時の相撲は命がけの格闘技であったようです。

現代の相撲界をその規模からみますと、全力士数およそ7百人です。因みに野球選手はセ・パ両リーグあわせて8百人なので、およそ同じ規模と言えます。選手寿命も10年~15年で大体同じです。

平成元年から14年までの14年間で引退した幕内力士の数は98人で、引退時の平均年齢は32才。(プロ野球選手の場合は30才、サッカー選手の場合は27才と、かなり厳しい数字になっています)

では、相撲界の賃金体系はどのようになっているのでしょう。

力士は、十両から「関取」と呼ばれます。それまでは「取的」と呼ばれ、月給はゼロ。チャンコを料理し、部屋の掃除や洗濯をこなした上、さらに付け人として関取の世話をする、いわゆる「ふんどしかつぎ」の時期です。この修行時代のつらさに耐えかねて角界を去る新弟子は、入門後半年ですでに半数近くに上るそうです。

朝起きたらいなくなっていた、外出したまま帰って来なかったなど日常茶飯事の世界なのです。稽古で散々にしごかれ、さらに一日中関取の身の回りの世話をしなければなりません。

あれを買って来い、これを持って来い、足を揉めなど、休む間もなくこき使われます。勿論自分の時間など全くありません。相当な地位にまで上った力士でも、夜中に逃げ出そうとした経験のない力士はいないというほど厳しい世界です。再三のけがから這い上がり、大関まで上り詰めた元「琴風」も次のように述懐しています。

「夜中にこっそり逃げ出そうとしたとき、親方がすれ違いざまに『頑張れよ』とか、『我慢せいよ』と言ってくれるんですね。そうするとポロポロと涙がこぼれてきて、『もうちょっと頑張ろうかな』と心が揺れました」

そんな取的ですら、十両になった途端その状況は一変します。今度は付け人がつき、料理や掃除などしなくても良い、いわばお世話をしてもらう境遇になるのです。このように、十両になれるかなれないかで天と地ほどの開きがあります。

因みに十両の月給は104万円(平成15年)で、中小企業では役員クラスの給料でしょう。しかし、意外なことに横綱になっても282万円。それほどの差はありません。それはなぜなのでしょう。

実は、この世界には給与と別に「力士褒賞金」というものがあります。

現役の寿命が短く、また怪我をしやすいなど、過酷な環境にいる力士の生活を守り、相撲界の存続、また興隆を図るために作られた独特な仕組みの一つです。

力士たちは、一般社会とはまったく異なった生活習慣のもとで独特の体を作り上げて行くので、上位力士になればなるほどその蓄積が増し、他の世界への転用が極めて困難になります。ですから、力が衰えたらすぐに引退に追い込むのではなく、力士がなるべく長い間現役でいられるように配慮された暖かいシステムなのです。

「力士褒賞金」は、「成績がよければ増えるが、悪くても減らない」が原則となっており、具体的な内容は以下のようになっています。
〔本場所の成績に応じて〕
(1)勝ち越しの数に応じて、一つにつき0・5円
(2)平幕力士が横綱に勝った場合、一番につき10円
(3)幕内優勝すると30円、全勝の場合50円
(実際はこれを4千倍した額が、年6回の本場所ごとに支給されます)
因みに「千代の富士」の場合、引退時の褒賞金は年当たり約3千5百万円でした。

「朝青龍」の場合は角界入りしてから日も浅く、優勝回数もまだ3回(平成15年時点)なので、年に約432万円と、横綱にしては意外に少ない額です。

これに対し、昨年幕尻で引退した「安芸乃島」は入門してから20年以上のベテランで、勝ち越し数が多いことに加え金星が16個もあるので、褒賞金は720万円でした。

このように、たとえ現在の地位が低くても、過去に実績があり、十両以上の番付を維持できていれば、若い横綱より良い給料がもらえるのです。

実力主義の世界でありながら、番付だけで給与を決めないのは、力士の生活を守るためですが、さらに、番付が力士を評価する基準として万能ではないからです。

たとえば、本場所で平幕上位で勝ち越したにもかかわらず、たまたまそのとき上位陣も全員勝ち越したので三役に上がれなかったり、大関で良い成績を上げても、そのときの状況で横綱になれない場合もあります。

このように運にも左右される番付の不確実さを補うためにも褒賞金があるのです。これ以外にも相撲界には、65才の定年までの雇用を保証する「年寄制度」など、他のスポーツ界にはない制度がいくつかあります。

昨今、年次昇給を廃止し、年俸制や能力主義を導入する会社が相次いでいます。しかし、社員の定着や安定した企業活動などを実現するには、能力主義一辺倒では無理があるでしょう。ある部分では能力主義で社員のやる気を鼓舞しながら、同時に長いスパンでの貢献度をも評価し、すべての社員が安心して働ける賃金体系を模索して行くことが必要なのではないでしょうか。

伝統的な社会の中にも、まだまだ学ぶべきシステムがありそうです。


~人生の転機とは~

ウォークマンにプレステ、パソコンのバイオなど魅力ある製品を次々と生み出し、他社の追随を許さないマーケティング戦略で市場を席巻するソニー。かつてこの大企業もある家電(機器)分野において、大敗をしたことがあります。それは「ビデオ戦争」です。ソニーのビデオ規格ベータに対して、後発のビクターがVHS規格を発表、激しい市場競争が繰り広げられ、最後にVHS方式が世界規格として採用されました。

この奇跡の逆転劇には高野鎮雄氏と窓際族の人生を賭けた闘いがあったのです。
高野氏は、「テレビの父」高柳教授と同じ浜松高工を卒業、日本ビクターに就職します。当時よりビクターの業績は、電機業界第八位とあまり芳しくありませんでした。

そんな苦戦するビクターの技術者であった高野氏は、昭和四五年、四七歳の時に突如VTR部門の事業部長に任命されます。一見これは大抜擢なのですが、実は、この事業部は、赤字続きのお荷物部署で、一年で首が飛ぶリストラの為にあるような所だったのです。辞令を言い渡された高野氏は目の前が真っ暗になりました。「満足に定年退職を迎えること無くサラリーマン人生が終わるのだ。これからどうしたらいいのだ」夢も希望も失い、酒に溺れてしまった高野氏は、ある日、赴任先で運命の出会いをしました。

そこには、自分が尊敬してやまない母校の大先輩、高柳教授が手塩にかけて鍛え上げた精鋭達がいました。日本初のテレビ放送事業で高柳教授の右腕と言われた白石勇馬氏を始めとした五十人は、本社の映像開発部門廃止にともないリストラ候補として同じくこの部署に流れ着いたのでした。彼らとの出会いは、高野氏に新たな夢と希望を与えます。
「これぞ神が与えたチャンスに違いない」そう考えた高野氏は、本社に内緒で白石氏ら3人と秘かに家庭用VTRの開発を始めたのです。

しかし、当時のビクターは、経営が苦しく、この赤字部門は目のカタキにされました。
「こんなに赤字を出して一体どうするつもりだ」
「早く社員をリストラしろ」
高野氏は、ことあるごとに本社に呼び出され、罵声を浴び、部下の大幅リストラの要求を突きつけられます。何度も窮地に立つも部下を庇い、夢を追う高野氏に、経理課長の大曽根収氏は共感し、共に屈辱的な目に遭いながらも本社から事業部を守ります。そして六年間という苦難の日々を経てついにVHS方式家庭用ビデオを開発するのです。

しかし無情にも、ソニーは先行して三ヶ月前にベータ方式の家庭用ビデオを開発していたのでした。「どう考えてもソニーには太刀打ち出来ない…」当時のビクターは経営状態がとても悪く、ソニーを相手にVHS事業を育てる余力がありませんでした。

行き詰まった高野氏は、あの松下幸之助氏に直言し、自分たちの運命を託すことを決心します。そしてビクター横浜工場を視察に来た松下氏に、高野氏はVHSビデオを見せたのです。松下氏曰く、
「ソニーのベータは百点だ、しかし君達のVHSは百五十点だ」と。こうしてついに親会社である松下電器の協力を取り付けることに成功したのです。しかし相手はソニーです。まだまだ市場を勝ち取る勝算はありません。

高野氏は、何と競合他社である日立、三菱電機、シャープを訪問し、VHS方式の技術を惜しげもなく伝えて共同戦線を依頼するという暴挙(?)に出たのです。各社とも高野氏のVHSビデオに賭ける情熱に感銘を受け、三菱は早送り機能を、シャープはフロントローディング機能を提供してきました。この高野氏の戦略は、VHS連合軍を生み、ソニーのベータ方式を挫折させてVHSをビデオの世界規格にまで押し上げます。そして高野氏は、「ビデオはビクター」と言わしめるまでに会社を成長させたのです。

後に副社長まで務めた高野氏は「ビデオ界の風雲児」「ミスターVHS」と言われ、伝説的なリーダーとして異名を得ますが、彼は言います。
「私なんて工場の親父がお似合いなのに、ここまでやらせてくれたのは神様のおがげなんです。私の周りにこんなにすばらしい人たちを置いて下さったんです。感謝の言葉もありません」と、はにかみながら語る彼の姿は、一流の経営者が持つ一種独特なカリスマや尊大さ、切れ者とは一切無縁の温厚な紳士でした。

この窓際族による奇跡のVHSビデオ開発物語は、TV番組「プロジェクトX」にも取り上げられ、西田敏行主演「陽はまた昇る」という映画にもなりました。高野氏が四七歳にして突如転機を迎え、嫌がらせの叱咤、リストラなど数々の苦境や屈辱に耐えながらも二百五十名の部下を誰一人首を切ることなくVHSビデオ事業を大成功させた生き様は、多くのサラリーマン達の共感を呼び勇気を与えたのです。

運命の女神が与える人生の転機は、時として予想し難い形で私達に訪れます。高野氏の人生は、いかなる未来が訪れようとも、また、例えそれが不運に見えても、前向きに努力して乗り越えることの大切さを教えてくれます。転機の時の生き方にこそ、女神を微笑ませるチャンスがあるのかもしれません。


~「 ありがとう」が聞きたくて~



神県に一人女がいました。彼女高校を出て何年か会社勤めをした後、欧州に留学し、その後、オーストラリアで企業勤めをします。その時、「この制度って日本にないけど、便利だな」と思うものがありました。彼女は帰国後、その制度を日本に導入し、今では当たり前のものにしてしまうのです。

その「彼女」とは、昨年日本の女性社長売上高ランキング三位、今年米経済誌フォーチュンのビジネス界「最強の女性・国際版」にランク入りした、派遣会社テンプスタッフ創業者の篠原欣子社長です。今回は「人材派遣」というビジネスがまだほとんど日本で知られていない時代、この事業にたった一人でチャレンジし篠原氏ご紹介します。

テンプスタッフは、今でこそグループ併せて二十五社、二〇〇二年総売上高一四九二億円、派遣登録者数四十万人を越える大企業ですが、最初は全くのゼロからのスタートでした。

篠原氏が初めて派遣制度を知ったのは、オーストラリアの市場調査会社に勤めていた時でした。社員が休むと、どこからともなく人がやってきて、業務を代行します。「便利だな。日本にもあるといいのに」その時はそう思っただけでした。一九七三年に帰国後、彼女は就職しようとするものの、日本企業の強い男尊女卑の処遇に疑問を感じ、海外で見た人材派遣業を思い出します。そして、「だめならやめよう」というノリで六本木のマンションの一室を借り、一人で会社を始めました。

ところが、起業をしたものの、日本では誰も「人材派遣業」を知りません。英字誌で英語秘書を募集すると、一人だけ応募がありました。こうして派遣スタッフが決まると、今度は受け入れ企業への営業です。三〇年前の当時、海外においての人材派遣業は一般的でしたから、まず、外資企業を回りました。折しも外資系の進出が多く、英語秘書の需要はありました。ところが、どこの誰ともわからない女性が一人でやっている会社など、どこも相手にしてくれ、電話をしても居留守を使われます。百万円の自己資金もすぐに底をつき、親に金までした上で、昼間は営業、は英会話教で日銭稼ぎをする日々でした。

そんな生活が四、五年続きます。篠原氏は何度も止めようと思いました。「この仕事に意味があるのだろうか」と。そのたびに彼女を支えていたのは、数少ない派遣先の「この前の人、良かったよ。ありがとう」、派遣スタッフの「とてもいい会社でした」との感謝の言葉でした。「派遣は日本で役に立つ。企業と派遣スタッフ両方のニーズがある。いつか必ず認知される日が来る」という信念を持ち始めます。共感者が何人か入社し、ほそぼそと外資系を相手に派遣業をしている内に、派遣の有益性も社会的に認められるようになり、徐々に依頼が増えました。また、日本の商社も海外との折衝が多いために、英語のできる人材の依頼が徐々に来るようになったのです。

こうして、やっと軌道に乗り出すと、今度は「派遣という怪しい商売をしている」と旧労働省や職業安定所から呼出を受けるようになります。「派遣」が日本で認知され始めたものの、一般化して同業者が増えるにつれ、今度は派遣業務内容、期間について全国レベルでの規定が必要になってきたのでした。

そして一九八六年に、労働者派遣法が定められます。次はこの規制との戦いです。篠原氏は同業者七社と共に「社団法人日本人材派遣協会」を設立し、規制緩和のために戦います。地道な交渉が続くなか、不況と日本の終身雇用制の崩壊という時代背景もあって、一九九九年、ようやく労働者派遣法が改正されます。規制が大きく緩和されたことによって、様々な専門的技術も派遣対象になったのでした。

ところで、篠原氏のテンプスタッフは、なぜここまでの大企業になったのでしょうか?単純に派遣希望者の登録を待ち、企業に派遣するだけではここまで成長するはずがありません。それは何よりも、篠原氏が企業側と派遣スタッフ、そして社員が更に満足するにはどうしたらいいか…を常に追求してきたからといえます。常に現場のニーズを知るため、篠原氏は忙しい時間の合間を縫って営業同行し、企業の意見を聞きます。すると、企業側は即戦力になる人材を求め、派遣スタッフ側もスキルアップを望んでいることが分かります。そこで派遣スタッフの教育システムを充実し、研修会や講座を打ち出したのです。

こうしてキャリアアップを望む女性達の支持を得て、登録者数が急増。折しも不況で終身雇用制が崩れてきたこともあり、企業側も短期間で即戦力になる人材を求め始め、有能な派遣スタッフのニーズが高まり、契約企業数も増加し始めるという、好循環が始まったのです。その結果、この教育制度は「アカデミーテンプ」という会社になり、教育機関として確立することになるのです。当社では常に新しい仕事や技術に対応する教育システムを完備し、派遣スタッフのたゆまない向上を追求します。

また篠原氏は、社内においても、常に社員の意見に耳を傾けるのです。テンプスタッフ社内には、「社内ベンチャー制度」が設けられています。これは社の企業理念「雇用の創造・人々の成長・社会貢献」に添ったものであれば、社員が自ら起こしたいビジネスを提案できるというものです。ある時、男性社員が「ベビーシッターを派遣する会社をやりたい」と提案しました。すると、ふだんは社員と親しく話し、気さくでほがらかな篠原氏が、いつになく厳しい顔で彼にこう話したのです。「やるからには企業として採算に乗せなければならない。それはとても大変だから、死ぬ気でやらないといけない。本当にできるか」と…。彼は「どうしてもやりたい。死ぬ気でやります」と応えました。そして二〇〇一年、ベビーシッター派遣企業「ウィッシュ」が誕生したのです。どんなに末端の意見にも耳を傾け、その本人の真剣さと覚悟を確かめ、チャレンジさせる。ウィッシュはそうして増えてきたグループ二十五社の一例です。

テンプスタッフは今年で三十周年を迎え、その間、さまざまな時代のニーズに応え、
事務職はもとより、ITからバイオなどの特殊分野に至るまで、中高年層の男性や、技術者などさまざまな人材を派遣してきました。また、障害者の雇用促進にも尽力し、障害者派遣やそのための教育機関も充実させています。

成功の秘訣について、篠原氏はこう語ります。「会社を起こすには、まず小さく始めること。自分で少しずつ動いていれば、自分の中にノウハウが蓄積されていく。地道にやれば必ず動く。大変なことはたくさんあるけれども、世の中の大変なことは全て人間が作ったことであり、人間が作ったことで人間が解決できないものは絶対にない。どんなに大変なことでも必ず乗り越えられるの。絶対に逃げない。そして、見栄を張らずに地道にやることね」

思いつきから、たった一人、マンションの一室で起業した篠原氏ですが、「社長というより頼りになるお母さん」という印象の彼女からは、決して起業して一大グループを築き上げた人物像は伺えません。しかし、篠原氏のその並々ならぬねばり強さと信念、そして周囲の意見に常に耳を傾けながらニーズを捉え続けた努力が、一大企業グループを確立しました。関係する人や社会によかれと思い尽力し続ける。その思いこそが、テンプスタッフグループをここまで成長させた原動力だったのではないでしょうか。篠原氏は、今も「ありがとう」が聞きたくて、テンプスタッフグループの発展に力を注ぎ続けています。


~ 伝説の「アレコレ問答」~



東京電力第六代目社長を経、経団連会長を務めた平岩外四氏は、誰からも敬愛される人徳を備え、我が国のエネルギーの泰斗的存在です。そんな平岩氏は、じつは無類の読書家で、蔵書は三万冊以上にも上るそうです。

敗戦後、東京電力に戻ってまもなく秘書課に配属された平岩さんは、休憩時間に本を読むのが日課になっていました。その様子が、当時、労務部長だった木川田一隆氏(後に、東京電力第四代目の社長に就任)の目にとまったのです。木川田氏は副社長になると、やがて平岩さんを自分の手元において、徹底的に鍛えはじめました。

木川田氏の副社長室は三階にあり、平岩さんはすぐ下の総務課勤務になりました。
総務課には、毎日のように木川田氏からの電話が入ります。用件はいつもたった一言。
「平岩君にすぐ来るように…」

平岩さんはそれを聞くや否や、机の上の書類を抱えて階段を駆け上がり、呼吸を整えながら副社長室をノックします。部屋に入っても、木川田氏は読んでいる書類から目を話そうともしません。そしてたった一言…。
「おぉ、平岩君か。アレはどうなった」

具体的な内容は一切おっしゃいません。ただ、木川田氏は「アレ」と言うだけです。
平岩さんが木川田氏から頼まれている仕事は常に一〇以上ありました。平岩さんはそのうちの一つを「コレだ」と思いながら、木川田氏の前に資料を並べて説明します
「アレ」と「コレ」が一致すれば問題ありません。木川田氏は平岩さんが並べた資料を見ながら黙って説明を聞きます。
「うん、コレだ。ありがとう」
その説明が終わりかけると、木川田氏は書類から目を離さずに、
「ところで、平岩君。アレの方はどうなっているかな」

この時も具体的な内容はおっしゃらないのです。そこで平岩氏は、これまでに調べた案件を、その場の直感で取り上げ、木川田氏の目の前に書類を広げます。
ところが、その内容が木川田氏の意図していた「アレ」でないと、平岩さんの説明は一切聞いてもらえません。書類をパラッと一瞥するなり、「それはもういいんだ」の一言でおしまいなのです。

そうなると、平岩さんは、仕方なく書類を抱え直して、とぼとぼと総務課の部屋に戻ることになります。そして階段を降りつつ反省するのです。
(今日はゼロ勝だった。一回も答えられなかった)
(今日は一勝二敗。まだまだ勉強が足りない)

この木川田氏のしごきは、平岩さんが総務部長、取締役、常務副社長になっても、ほぼ毎日続きました。

そうして、二人のやりとりは「アレコレ問答」と呼ばれるようになり、今なお、東京電力で語り継がれる伝説となったのでした。

平岩さんは木川田氏の「アレ」を、どのように理解かについて、こう語ります。
「確かに木川田氏からはいつもたくさんの仕事をおおせつかっていました。しかし、木川田氏のアレは、その時点で最も問題になっている案件なのです。電力業界全体の問題であったり、東電社内の問題であったりしました。ですから、要は全体の流れの中で、この日、その日に解決しなくてはならない緊急案件を答えれば良かったのです。
でも、これは非常に難しいことです。情報量も木川田氏と私ではケタが違っていましたし、木川田氏と同じ問題意識を持たない限り、どれがその日の緊急案件か分からないからです…」

平岩さんはさぞかし悩まれたに違いありません。副社長に「もういいよ」と、言われることは、自分の現状分析や認識が甘いと指摘されているのも同然だからです。だから、必死になって東京電力社内や業界全体の抱える問題、課題、果ては日本経済の問題点まで、ありとあらゆる問題について勉強したといいます。

そんな「アレコレ問答」にパーフェクトに答えられるようになったのはいつ頃だったのでしょうか。
「打率が九割を越えるのに二〇年かかりました。自分が副社長になってからはほぼパーフェクトに答えられるようになりましたね」
その代わり、平岩さんは事前に木川田氏のスケジュールをチェックし、誰に会うのか、どんな会議や会合に出席するのか、そのテーマは何かなどあらゆる情報を収集し、勉強して備えたといいます。木川田氏の持っている情報や、あるいは入りそうな情報まで抑え、万全の対策を講じたのです。

平岩さんは、木川田氏の「アレコレ問答」により、あらゆる勉強をする機会に恵まれました。しかし、それだけでなく、究極の気配りという無形の財産を体得することができたのです。木川田氏が今何を考えているのかを瞬時に判断し、同レベルかそれ以上で行動できるように、気を巡らす…。

しかし、それを体得することができたのも、読書が習慣として身に付いており、膨大な量を読みこなしていたがゆえのことでしょう。日頃の読書により、咀嚼力、洞察力、類推力がベースとして備わっていたのです。


~ 一流の経営者にストレスはない?!~



従業員の問題、資金の調達、売り上げの増大、利益率確保、経削減、新製品開発、営業戦略など、経営者にストレスの種はつきせん。の休まときはいと言るのではないでしょうか。

あまりにストレス感じ過て、私もストレも疲れ果またどとい話がてきそうです。
しかし、経営者がストレスに負けていては、会社を発展させることはおろか、維持することすらままならないでしょう。

では、一流の経営者はこの問題をどう乗り超えているのでしょうか。

驚くべきことに、一流の経営者のほとんどが、
「仕事上のストレスはない」、「感じたことがない」
と答えています。たとえば、セコムの取締役最高顧問の飯田亮氏、ソフトバンクファイナンス代表取締役CEOの北尾吉孝氏、ワタミフードサービス代表取締役社長の渡邊美樹氏など…。

彼らはいったいどうやってストレスを解消しているのでしょうか?

一般的なストレス解消法としては、友人とを飲む、ルフほかスポーツをする、ぐっすり眠る、カラオケで歌う、映画、音楽、コンサートなどがありますが、社員ならともかく、経営者としてはあまりほめられた方法ではないでしょう。

〔ストレスに強い人〕は、次のような特徴を持っています。
★仕事が好き(寝食を忘れて没頭できる)→情熱を持って