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プルガサリ撮影秘話

薩摩剣八郎氏直筆の「プルガサリ撮影秘話」のバックナンバーです。


目次

第1回 <プルガサリはハリウッド・・・!?>

第2回 <出発前夜>

第3回 <大陸を飛ぶ>

第4回 <上海の田舎っぺ>

第5回 <ハプニング>

第6回 <中国上陸>

第7回 <北京電影撮影所>

第8回 <大崩壊>

第9回 <まだまだこれから>

第10回 <申相玉監督、北朝鮮特撮事情を語る>

第11回 <いよいよ北朝鮮へ>

第12回 <旭商会と普通江(ポドンガン)とサントリービール>

第13回 <北朝鮮プルガサリスタッフ会議>

第14回 <北朝鮮でのプルガサリ撮影日記>


第1回 <プルガサリはハリウッド・・・!?>

 映画「プルガサリ」は、俺の長い俳優生活の中で、最も心に残る記念作品となっている。その撮影後も、俺は平成「ゴジラ」の全作品を演じきり、「薩摩ゴジラ」と呼ばれるようになった。たくさんのファンに支援され、それは遠くアメリカやヨーロッパにまでおよび、招待状が届くほどになっていった。特にアメリカのファンは熱く、毎年1回はフェスティバルに招かれて、大歓迎を受けている。

 撮影後から公開までが13年、そして公開されてから数年がたった今でも、「プルガサリ」は根強く支持され続けている。CG映画にはない手作りの温かさ、素朴さ、民話の懐かしさが、なんともいえないという。そのようなファンの気持ちに応えるとともに、この度、当時自分が書き残しているメモをもとに、そのときの事を書き連ねてみようと思い立った。

 「プルガサリ」の撮影までのいきさつ、自分の思いなどを語っていきたいと思う。つたない文章だが、どうかお付合い願いたい。

 映画「プルガサリ」の企画が持ち上がったのは、1985年2月中旬のこと。そして、俺に対しての出演打診があったのは、2ヶ月後の4月上旬だった。
「6.7.8.9月、スケジュールをあけておいてくれ。撮影はアメリカでする。ハリウッドだ。」
「ハ、ハリウッド・・・!本当ですか?俺が・・・?」
「そうだよ。頼むぞ!」
「もちろん!」

 夢にまでみたハリウッド。俺はすっかりその気になっていた。ところが、待てど暮らせどいっこうにゴーサインは出ない。いや、助監督のアサやんから、出発するといっては取りやめだという電話の繰返しは何度かあった。結局ハリウッド行きはまやかしで、本当は、北朝鮮だった。詳しくは拙著「ゴジラが見た北朝鮮」を読んで頂ければよくわかる。

 一方、「プルガサリ」の撮影準備は着々と進行していたようだ。4月上旬、平壌、北京のロケハン。28日プルガサリの原型着手。5月下旬、着ぐるみ完成。6月中旬から8月中旬まで平壌で撮影。その後、9月中旬まで「ゴジラ」でおなじみの東宝№9スタジオにて、真っ赤に焼けだだれた「プルガサリ」がさまよう山里のシーンを撮影、下旬にはクランクアップの予定だった。(残念ながら、東宝編はカットされてしまった。)「プルガサリ」は、人の心が読めるユニークな怪獣で、ヒロイン「アミ」とは仲がよく、まるで恋人同士のように一体感で結ばれている。動きも人間ぽくて地のまま演じた。

 結局、実際に完成したのは12月下旬で、予定より大幅に遅れてしまった。試写会は翌年1月、東宝撮影所の試写室で行われた。その作品の完成度は高く、「一級のスペクタクル怪獣映画だ!」「この映画にはCGではとうてい現せない部分がある。」「日朝スタッフの人間ドラマさえも感じさせる。」などなど多くの賞賛の声に湧き上がった。ほどなく、日本公開も決定した。ところがだ、そんな喜びムードから急転直下、あろうことか、我が「プルガサリ」は政治の渦に巻き込まれ、人々の前からプッツリと姿を消してしまうのである。そしてその後、13年の時を越え、お蔵入りと思われていた映画が、奇跡的に日の目を見たのは、みなさんご存知の通りだ。

(薩摩剣八郎)


第2回 <出発前夜>

 さて、1985年9月11日、いよいよ北朝鮮に出発することになった。誰もが知っているように、我が国と北朝鮮とは、国交がない。そもそも日本人による朝鮮侵略は、14世紀~16世紀にかけて、朝鮮南部や東シナ海を荒らしまわった「倭寇」に始まり、1592年と1599年、二度にわたる豊臣秀吉の「朝鮮侵略」しかり、日清、日露の戦役。1910年~1945年まで、36年間に及ぶ日本帝国主義統括による植民地支配。朝鮮民衆の積もり積もった恨みつらみは、一朝一夕に忘れられるものではない。1945年8月15日、ようやく日本帝国主義から解放されるが、日本人に対する人間不信はおとろえていない。「同族国家」再建なる、と思われた矢先に、米ソ両大国による38度線分割。1950年6月25日朝鮮戦争がはじまり、朝鮮半島は、またしても痛ましく悲しい修羅場と化して行った。これに乗じて、火事場ドロボーのように、しこたま荒稼ぎしたのが我が日本だったのだ。したがって、過去のいきさつから考えると、日本人が北朝鮮に行くことは、まったくもって虫のいい話で、絶対不可能なことである。ただし、向こうからの招へい状がある場合には、話は別だ。我々はプルガサリの監督、申相玉氏が金正日書記にかけあい、許諾を得たので招待状が届き、北京経由で平壌入りをはたせたのである。

 この作品は、日・朝・中の協力のもとに企画された映画だった。まず、初日の撮影は、北京の電影撮影所で撮る事になっていた。シーンは、プルガサリが虐げられた農民たちを助けるくだりで、独裁者が身を潜めた王宮をぶち壊すカットから始まる。その王宮のモデルとなったのが、なんと中国歴代皇帝の館、「紫禁城」だった。その中でひときわ目立つ壮大な建築物「大和殿」を破壊するという、とてつもない撮影なのであった。その「大和殿」を縮小したセットを北京電影撮影所の大スタジオに、忠実にそして精巧に作り上げた。その出来栄えは、我々特撮のセットを見慣れた日本人スタッフから見ても、それはそれは見事というほかはなかったが、「大和殿」をぶち壊すということは、日本でいえば、皇居、おそれ多くも天皇のお住まいを木っ端微塵にするのと同じことだ。たとえ映画だとしても、そんな大それた撮影を、中国政府がよくも許したものだと感心してしまう。てなわけで、俺たちの出発が幾度となく延期になったり、撮影が大幅に遅れたのも、この「大和殿」にかける中国スタッフのなみなみならぬ熱意と、妥協を許さぬプライドがそうさせてのことだった。

 さあ、いよいよ第一の撮影の地、北京に向かって出発だっ!なにを隠そうこの俺、自慢じゃないがこの日本という島国を出るのは、このときが初めてなのだ。どうなることやら・・・。とにかく飛行機に乗り込んだところから、話を進めていこう。

(薩摩剣八郎)


第3回 <大陸を飛ぶ>

 中華民航機930便は、上海経由の北京行きだった。俺と助監督のアサやんを乗せた飛行機は、新東京国際空港を午後3時15分、定刻どおりフライトした。上海到着が7時30分。機はこの上海空港で、乗客を降ろし、整備点検・時間調整をしてから、8時55分、再び北京空港目指して離陸する行程となっていた。

 高度1万メートル、時速1040キロの空の旅。初めての日本脱出に、俺は子供のようにはしゃいでいた。それに引き換え、天上界は実に穏やかなもので、雲のじゅうたんを敷き詰めたような雲海は、ただただ、静まり返っている。しばらくすると眼下に、どでかい山々が現れた。それは延々と果てしなく、どこまでも続いている。雄大な大陸だ。これが中国なのか・・・?! 生まれて初めて目にする中国大陸・・・。4千年の歴史と神秘をたたえた大国!その巨大な「眠れる獅子」は、完全に俺を圧倒した。異次元の世界に飛び込んだようだ。未知の世界への憧れと好奇心とがムクムクと湧き起って、それは炎のように燃えさかり、モーレツな興奮が身体を突き上げてきた。
(そうだっ!アサやんも俺と同じで、ワクワクして身を乗り出しているにちがいないぞっ・・・)
とっさに、後部座席の相棒を振り返る。ヤツは喫煙席だから、煙草を吸わない俺の席とはだいぶ離れている。俺はジリジリしながら,角張ったヒゲづらを捜した。ところが、アサやん、予想に反して、フグのように膨らんで、高イビキで熟睡中。

「・・・なんだ。」
俺は憮然として、上体を元に戻した。突如として冷静さを取り戻した俺は、ひとりソワソワ落ち着きのないオノレに気づいて、恥ずかしくなる。今度は、周りを気にしながら、控えめに窓の外に視線を反らせた。930便は風に乗って、スイスイとトンボの飛行のようだった。彼方の浮雲が夕日を背に受けて、キラキラと黄金色にふちどられている。自然界が作り出したその神秘的な造形美は、しばし俺を魅了した。

「ハアー・・・」
思わず感嘆の声をもらす。

「オチャニシマスカ、ソレトモ、コーヒー?」
カタコトの日本語が発せられた。見ると、スチュワーデスが俺を覗き込むように話かけている。

「あ・・・、お茶」
夢心地のところを、急に声をかけられ、俺は戸惑った。が、戸惑った理由は、実は、それだけじゃぁない。はからずも、目の前に現れた若い女性は、まったくもって、俺好みの美女ではないかっ!

「ハイッ」
切れ長の澄みきった目が微笑む。アクセントが多少ずれているが、そこが、またイイ!鼻にかかった声、そしてその潤んだ瞳は、おもわず、抱きしめたくなるほど可愛らしい。思いがけず、魅力的な女性に遭遇した俺の心は浮き立った。可憐な彼女に、俺はこっそり「ミッちゃん」と命名した。(なぜ、ミッちゃんなのかは、そのうち機会があったら話そうかな)

「ドウゾ」
熱いお茶の入った紙コップを差し出した。

「どうも・・・」
失礼とは思いながら、俺は彼女から視線を離せられずにいた。
(なかなかのチャイナ美人だ。いいなあ・・・。)
俗に言う、一目惚れってヤツだ。美女に恋焦がれるのは、なにも俺だけではない。アサやんも、世の男性諸君も同じこと。が、それぞれ相手の立場を考え、理性を働かせ、失敗しても不都合のないように計算してアタックするものだが、俺の場合は、突発的に行動するから恐ろしい。動機もシンプル、好きだから好き!本能のままに動く。

それはいちばん自然な姿だが、相手にも選ぶ権利があるのだった。したがって、十番中、九番は完全に失敗に終わる。それでも、若い時分は気にならなかったが、俺もこの時、四十坂にさしかかっていたから、さすがに恥の苦味が解かって来ていた。

 930便のスチュワーデス達は、みんな気さくだった。顔に構えが感じられない。服装も質素で、接客態度も自然。国民性の違いなんだろうか・・・?
「ヨロシイデスカ?」
(俺の)ミッちゃんは、もっぱら任務を遂行中で、俺のカラになったコップを指して言った。
見れば、他のスチュワーデス達も、乗客の中をたくみに泳いで、飲み終わったコップを回収している。

「あっ、ごちそうさん。」
グシャッとコップを握りつぶして、ミッちゃんに手渡した。

「アアッ!」
と、ビックリしたようにヒシャゲタ紙コップを受け取って、おどけたように元の形に戻し、回収してきた他のコップの上に重ねた。

「あ、ゴメンッ!セイセイ・・・」
俺はあわてて謝った。

「ドウイタシマシテ」
ミッちゃんは苦笑いすると、黒髪をなびかせ、前の方の座席に遠ざかって行った。
(ほんとにいいなぁ、あのコ・・・)
俺は相好をくずし、ひとりニヤニヤしていた。

ピカッ!
窓外を得体の知れない光が貫いた。俺は身を乗り出し、団子ッ鼻を窓ガラスにすりつけた。

ピカッ!
また、閃光が走った。白雲がにわかに闇に侵され、みるみる褐色の入道のようにむくれあがってきた。「静」から「動」へ、天上界はめまぐるしいスピードで様相が一変して行く。それはまさしく、安眠妨害された孫悟空が怒り立って巨大化した姿だ。

ピカッ、ピカッ、ピカッ・・・・・

再び無音の光が暗黒の渦に突き刺さった。すると逆流して敵対していた雲の群れも、嘘のように元に戻り静けさを取り戻した。怒り狂った孫悟空の顔も、闇の中に吸収されて真っ黒になってしまった。

 930便は、悠々と飛行を続けている。俺は夢の中で、幻を追っているような錯覚を覚えた。
「みなさま、当機はまもなく上海空港に着陸いたします。どなた様も座席ベルトをお締め下さい。」
中国語とカタコトの日本語がアナウンスされると、客席が活気を帯びてきた。

「7時25分か・・・。予定通りだ。」
俺は意識して、背伸びした。飛行機は、徐々に降下している。残念ながら、上海の夜は、ただ静かに更けてゆくのみで、俺の期待していた、心浮き立つようなロマンチックな「支那の夜」の風情は、どこにも無かった。あるのは、闇、静かな大きな夜が沈黙しているだけだ。

(薩摩剣八郎)


第4回 <上海の田舎っぺ>

ドスンッ

 鈍い摩擦音が五体を打った。機体が滑走路に着地したのだ。すかさず、機内アナウンスが話しかけてきた。
「当機は上海空港に着陸いたしました。乗務員の指示があるまで、座席におかけになってお待ちください。」
だが、大部分の乗客は無視して立ち上がって、出口に向かっている。俺は、天井も突き破らんばかりに大きく背伸びした後、バッグを肩に掛けて席を離れた。一時的な着陸で、どうせまた戻ってくることになるのだから、手荷物は座席に置きっぱなしでよかったのだ。しかしこのとき、俺の頭の中の隅っこにさえも、そんな予備知識は入っていなかった。大陸での第一歩という事もあって、心は先走って止まず、まさしく旅慣れない田舎モノまる出しだ。ほとんどの乗客は手ぶらで、列に加わっていた。

 やっと搭乗口に来た。スチュワーデス達が揃って、乗客を送り出している。俺は、めざとくミッちゃんの姿を見つけた。と、彼女も俺に気づいた。その美しい頬をポォーッと赤く染めた(ような気がした)。しかし、俺は相手の立場を考えて、素知らぬ振りをして機外に出た。

 ゲートは真っ直ぐに伸びている。人波が続く。俺も押されながら、流れに従った。途中、列を抜けて後ろを振り返えり、相棒のアサやんを捜した。が、姿は無い。(当分、来そうもないなぁ・・・。出口で待つか。)俺は、また列に加わり、ジグザグしながら直進した。しばらく行くと突き当たり、そこを左折すると出口が見えてきた。反対側がロビーになっているが、外国人観光客の一団が長蛇の列を作って、出口を阻んでいる。先頭で、中国人らしき若い男性ガイドが二人、人数確認とパスポート集めにテンテコ舞イだ。

「おぉーイィ、ここだ、ここだっ!」
聞き覚えのある、品の無い声の出どころを見ると、やっぱりアサやんだ。俺を見つけて、ピョンピョン飛び上がりながら、手を振っている。その手で、アゴ髭をガリガリと掻いた。俺たちは、外国人一団をぬって階段を下り、税関に向かった。

 見聞きするすべてが初モノづくしだが、
「外国人に負けてなるものかっ!なぁ、アサやんっ。」
「おーっ!シャンとしなきゃあ、バカにされるぞっ!」
「ニッポンジン、此処にありっ!」
二人は精一杯、両肩をいからせ胸を張る。当時を振りかってみると、恥ずかしいほどみごとな田舎っぺぶりだったと思う。しかし、俺達はすっかり、ベテラン旅行者、世界中を駆け巡る国際人気取りだった。

 税関は930便からはき出された乗客で、身動きができない。窓口が二ヶ所だけだから、なかなか歩みが進まない。二人とも人波をかき分け、かき分け、やっとのことで、それこそ強奪するように申請書を手にとった。・・・までは良かったのだが。

「ウーム・・・。」
俺は大きな吐息を吐き、考え込んでしまった。書類の各項目は、すべて中国語で記してあるのだ。見れば見るほど、チンプンカンプン、ペンは動かない。

「イヤー、困った。こんなことなら、しっかり語学の勉強をしておくべきだったなぁ・・・」
「いやはや、まいったなぁー。」
しばし二人は固まったまま・・・。

 すっかり出鼻をくじかれた俺たちであったが、見よう見まねで、なんとか書くには書いてみた。通用するかどうかは別問題で、とにかく列の後ろに並んで順番を待つ。ーーーーーだいぶ時間が過ぎた。

「イクスキューズミー」
突然、女の声がして、俺は振り返った。

「え・・・?」
「イクスキューズミー・・・」
金髪女性が俺に話しかけてきた。アメリカ人観光団の中のヒトリらしいが、いったい、なんでっ? 俺に・・・?

「アん?」
俺は、ポカンとした。しかし金髪女性は真剣に、なにやら早口でまくし立てて来る。

「オー、ノォ!ノォ!」
俺は右手を大きく振って、『英語、話せませーん』のジェスチャーを試みた。・・・
どぅも、分からないようだ。

「ヘイッ、ユー!イングリッシュ、ノォ。」
動作をまじえ、知っている単語を言ってみる。・・・ダメみたいだなぁ。彼女のしゃべりは止まらず、青く大きな瞳が俺を直視している。

「ミーイー、ニッポンジーン!イングゥリッシュウー、ノーオ!エイゴダメヨォ!」
今度は両手を大きく左右に振り、ゆっくり、そしてハッキリと言い放った。またダメだ・・・。ええーぃ、めんどくさいっ!

「ヘイッ、ユゥ!ミィ、サムライ、ニッポンジン、イングリッシュ、ノォ、ノォ、エイゴシャベレナアァィ!アンダスタンドォ?」
俺はやけになって、強い態度に出た。が、彼女のとめどなく英単語を発する大きな口は、動きを止める気配がない。

「イッタイゼンタイ、なんだってゆうんだよっ!聞きたい事があるんなら、他の誰かに言ってくれぇ・・・!」
よぉーし、こうなったら・・・

「ワタシニッポンジン、エイゴダメネ、イングリッシュ、ノーオ!エイゴゼンゼン、ダァメッ!ワタシニッポンノサムライ!エイゴダメッ!ホッカノヒットニ、キイテ!」
腕を交差させてバッテンをつくり、完全拒否のジェスチャー。・・・全然、通じてないっ!それどころか、彼女は俺が困惑しているのに気づかない。ますます追い詰めてくる。なにしろ、180センチ以上もある大女なのだ。俺もタジタジ、小さく見える。さぁーて、困ったッ。どうしよう・・・。

「あ、そうだ、アサやん!」
俺は、後ろに相棒が居たことを思いだし、助け舟を乞う。

「なぁ、アサやんっ、なんとかしてくれよ!頼むよ、なーぁ!」
ところが、相棒ときたら周囲の観光客同様、対岸の火事とばかりに傍観してるだけ。

「この野郎!冷たい男だぜ、まったく・・・。」
ヤツをどついた。なおも、金髪女性の機関銃は止まらない。どうにも、こうにも、困り果てて、せっぱ詰まった俺は、

「ノゥノゥッ!ユウ、ワカラナイヨ、ユウ、ダレカニキイテッ!ノォ、ノォ、エイゴダメ!ワッカルヒトニ、キイテ!グウォ~ォッ!」
と、空港職員の方に向かって咆えた。俺としては、『英語が解からないので、係りの人に聞いてくれ』という意味のジェスチャーをしたつもりなのだが・・・・

「・・・オーォ、ガズィラ?」
金髪女性は右手で俺を指差し、大きなブルーの目ん玉をギョロリと回し、

「オー、オーッ!ガズィラッ!ガズィラッ!」
そう叫ぶと、飛び上がらんばかりに興奮し始め、俺に握手を求めてくるではないか。

感情表現の豊かなアメリカ人のことだから、彼女の興奮ぶりは、周囲にも火を点けた。「ガズィラ」と聞いて、特に色めきたったのは、やっぱり彼女と同じ、アメリカ人観光客だ。一斉にこちらに視線が注がれるやいなや、みんな「ガズィラ!ガズィラ!」と叫びながら、次々に手を差し伸べてくる。俺のことを「ゴジラ俳優」と分かったとは思えないのだが、無下に断るわけにも行かず、それからはもう握手ぜめだった。アメリカ人が、「ゴジラ」に対してこれほどの反応を示すとは・・・。

さすが、世界のモンスター!むこう(アメリカ)の百科事典に載っているだけのことはある。
身をもって体験した俺は、感心することしきり。

「センキュウー!」
そう言って、かの金髪女性は、恥ずかしそうに首をすくめた。その仕草は妙に可愛らしい。さっきまで、仁王立ちでまくし立てていた機関銃女とは、とても思えない。彼女は感謝の気持を表すと、去って行った。ようやく”ゴジラフィーバー”もおさまり、人々は列に戻る。

 俺は、「いやぁー、驚いたねぇ、まさかゴジラ演技が通用するとは・・・。だけど、あの外人女性、俺に何を言いたかったんだか・・・?結局、解からずじまいだったなぁー。」

「それにしても、さっきのゴジラ演技、クッサイ、クサイ。とても使えたもんじゃない!」
と、アサやん、鼻をつまむ。

「この野郎っ!」
俺はヤツの肩を、痛くない左手でどついた。

 とんだ予期せぬ出来事で、冷や汗をかいた俺だった。が、そんなことよりも、俺たちが抱えていた問題は別にあったはずだ。それは「検閲窓口を無事に通れるかどうか」と、いうことだった。もし、ここで足止めをくうような事になったら、ただでさえ遅れている撮影がますます延びてしまう。スケジュールは大きく狂って、関係者たちに大変な迷惑をかけることになってしまうのだ。ところが、そんな心配とは裏腹に、意外にもすんなり通過できたのである。おっかなびっくり書いた書類は合格だったらしい。中国語の羅列にビビッた俺たちだが、とんだ取り越し苦労だったわけだ。俺とアサやん、互いに顔を見合わせ、ホッと胸を撫で下ろす。

 待合所は、税関を出て左側の階段を上った一階。さっき通った出口の真向かいにあった。俺たち二人は、待機すること1時間余り。そして再び、同じ飛行機に乗り込む。930便は8時55分キッカリに機首を上げた。上海から北京まで350キロ、所要時間は1時間30分である。

 まもなく機は水平飛行に入り、座席ベルト着用のシグナルが消える。俺たち二人の大望も、負けじと黒流の中を突っ走っていた。

(薩摩剣八郎)


第5回 <ハプニング>

「うわぁーあ、キレイだなぁ!こんな鮮やかな景色、見たことがないっ。」
ぬけるような青空の中を、俺は悠々と飛んでいた。赤、黄色、緑、オレンジ、ピンク、紫、・・・。山も畑も、目に映るすべてが、なんだか妙にカラフルだ。

「まるで油絵の世界だな・・・。」
色鮮やかな、自然にあふれた山里である。俺は両腕を左右にピンと伸ばし、上機嫌で飛行中。

「牛でもいそうなのどかな所だけど、見えないなぁ。」
そういえば、人の姿も見あたらない。さっきから、人っ子ひとり見ていない。

「それに建物らしき物もまるで無い。誰も住んでいないのか?こんないい所なのに、おかしいな・・・。」
俺は辺りを観察しながら、ゆっくりと進んだ。

「あれっ!向こうに青々としたものが、見えてきたぞ。湖みたいだな。キラキラ光って、きれいだぁ。よしっ、あそこに行ってみよう!」
目的に向かって、徐々に高度を下げていく。

「イ~イ気持だなー。」
風が身体を吹き抜ける。うん、爽快だ。快調、快調ッ!と、突然、左肩に「パシッ!」と何かがぶつかった!

「ハッ!?」として、身体が跳ね上がった。すると、その瞬間、なにやら柔らかなものが、俺の唇に・・・
「? !」

ウンッ?ミッちゃんッ・・・?
「!!!」
な、なんとッ、俺の唇が触れたモノは、外でもない、ミッちゃんの小さな愛くるしい唇だったのだッ!!

 つまり、真相はこうである。機は北京上空にさしかかり、座席ベルト着用のシグナルが点灯していた。しかし、つんのめるような格好で前席の背にもたれ、いい気持で夢の中にいた俺は、そんな事には全く気づかない。それで俺を起こそうと肩を叩いて覗き込んだミッちゃんの顔と、跳ね起きた俺の顔とがニアミスし、(ウソのような話だけど)唇と唇が、うまぁーい具合にドッキングしてしまったという訳だ。(後で近くの人に聞いたのだが、なかなか目覚めない俺に、声を掛けたり、揺り動かしたりして、ずいぶんとミッちゃんはテコズッていたらしい。)それにしても、誰がそんな事態を予想しえただろう・・・?まるで、狙ったかのようだ。もちろん、俺の仕組んだ事じゃない!

「アー!」
目撃した乗客は、声を飲み込んだ。それは、ほんの一瞬の突発事故だった。けれども、周りの退屈の虫を静めるのには、充分過ぎるほどの刺激だったに違いない。だが、誰よりもビックリしたのは、当のミッちゃんだ!きめの細かい白い肌が、たちまち真っ赤に変化していく。俺は眠気など、いっぺんにスットンダ!
(謝った方がいいか、それとも何事もなかったようにやり過ごした方がいいんだろうか・・・?)

「ザセキベルトヲ、オシメクダサイ!」
彼女は平静をよそおい、あえてキッパリとした口調で言った。

「あ、あっ、セイセイ・・・」
俺は、ガチャガチャ不器用にベルトを締めた。そして、
「・・・大丈夫でですか?」
ドギマギしつつ、思い切ってたずねた。

「ダイジョウブデス・・・。ゴメンナサイ、シツレイシマシタ。」
ミッちゃんは会釈すると、自分の席に戻って座席ベルトを締めた。そしてもう一度、俺に向かって軽く頭を下げた。
(いや~あ、こりゃ、幸先がいいぞぉッ!)
俺の心は、飛行機を突き破り、闇に向かってグァオ~ッと歓喜の雄叫びをあげた。いつもは、信じていない神様にさえ感謝した。当然のことながら、内心あふれんばかりの笑顔がこぼれている。だが、俺は人前を繕い、終始鬼瓦のような顔を保っていた。

 そんな珍事を知ってか知らずか、930便は順調に飛行を続けている。北京の夜景は、東京のようにケバケバした煌めきとは違って、街全体が黄金色に統一され、優雅な歴史絵巻を感じさせる。いよいよ到着の時が来た。はじめは窮屈と思っていたこの客室が、いつしか居心地の良い場所に変わった今、俺は去り難さを感じていた。

(さようなら・・・) 

 俺は、愛しいミッちゃんに別れを告げた。彼女は潤んだ瞳を、いっそう潤ませ、惜別の笑顔を作っている。この可憐なチャイナ娘とは、もう二度と逢うことはないだろう。俺は彼女の幸せを、心から祈った。大陸の空の旅は終わったのだ、そう自分に言い聞かせ、俺は振っ切るようにミッちゃんと930便に、背を向けた。

(薩摩剣八郎)


第6回 <中国上陸>

 俺は手荷物を受け取り、入国手続きを済ませてようやく外に出た。

「さぁ、中国に着いたぞぉ。俺の演技の真価を発揮するのは、いよいよこれからだっ。がんばるぞぉーッ!」
俺は武者震いしながら、暗闇に向かって咆えた。ところで、まだ迎えの車は来ていないようだ。辺りを見まわす。

「ほう、ここが北京空港か・・・。畑の中の一軒家というところだなあ。」
あまりに殺風景で、期待した感動は湧いてこない。夜のせいだろう。時間が過ぎて行く。アサやんはまだ出てこない。俺は側の縁台に腰掛けて相棒を待つことにした。ヤツはまだ税関で手荷物のチェックを受けている。なにしろ、荷物の量が多い。俺のとはあまりにも差がありすぎる。

「ププッ、ププッ!」
と、クラクションの音がして、マイクロバスが、俺の真横に止まった。やっと来た。出迎えの車だ。

「やぁ!」
と、最初に出てきたのは、日本側の制作プロデューサー、宮西氏だ。相変わらず、無口で多くを語らない。キューピーのようなオデコにどんぐりまなこ、彼とは二ヶ月ぶりの対面である。例によって、首を右肩に乗せて頭を捻りながら、

「ヒィー、まいった、まいった!」
と、上体をそっくり返して、挨拶する。その独特の癖は環境が変わっても、直っていない。アサやんが、ハアハア荒い息を吐きながらやっと出てきた。

「ニイハオ!」
「ニイハオ!」
車の中から、次々と中国人スタッフが降りて来た。北京電影撮影所の制作担当の団さん、通訳の黄さん、ドライバーの張さん等と、初対面の挨拶を交わす。団さんの手の大きさと握力には、俺もビックリ!厚みがあって暖かで、なんとも握り甲斐のある手だ。威厳のある身体を濃紺の国民服に包んでいる。”怒った時の西郷どん”のような厳しい面構えだが、笑うとエビス様のように目尻が下がる。俺たち、遠来の客を心から歓迎してくれている証しだろう。俺もありったけの力を込めて、団さんの手を握り返した。
 
 時計の針は、すでに深夜の12時をまわっている。
「空港から市内まで、40分かかります。」
横に掛けている通訳の黄さんが説明してくれた。この黄さん、ヒョウヒョウとして背が高く、スーツが良く似合いそうだ。普段は、貿易会社の通訳をしているらしい。

 俺たちを乗せたマイクロバスは、空港道路を一直線に突っ走った。ポプラ・柳並木がどこまでも続いている。驚いた事に、街路樹の根元にポツンポツンと人が立っている。良く見ると、目的を持って人と待ち合わせをしているようにも見えない。何となく、佇んでいるのだ。肩を寄せ合ったアベックの姿もある。俺が想像していた中国観は、またひとつ崩れた。中国の人民たちは、自由に悠長な生活を満喫しているのだ。

「今、中国は観光シーズンで、ホテルの部屋が思うように取れない。空いてない。」
と、団さんが嘆く。黄さんが通訳しながら、補足した。
「先に来た人たちも、みんなバラバラに泊まっているんですよ。それも2,3日で、ホテルを転々としています。」
「そういう状態だから、しばらく我慢してよ。」
助手席に坐っていた、宮西プロディーサーが、後ろを振り返って話し掛けてきた。
 
 いつしか、マイクロバスは古い二棟続きの建物の前にたどり着いた。部屋には、気心の知れたスタッフ、呑み助の久米ちゃんが泊まっているという。

「オスッ!」
俺は部屋に入るなり、親しく声をかけた。

「おおぅッ、剣ちゃん!」
久米ちゃんが、グラスを置いて立ち上がり、温かく迎えてくれた。

「どう?上手くいってる?」
早速、アサやんが聞いた。

「なかなか大変だぜぇ。」
久米ちゃんはドカッツと腰掛け、ニタニタしながら、上目遣いに話し始めた。彼は、第一次先発隊の一員だから、北京入りしてから、もうかれこれ二ヶ月になる。誰よりも進行状態を把握していた。スケジュール調整をする助監督のアサやんとしては、一番気になるところだろう。

 俺は記念の一夜を明かす、部屋を見回した。六畳間にツインベッドが二つ、木製のサイドテーブル、座り癖のついた椅子が二つ、それらが申し訳程度に置かれている。
お世辞にも、良い部屋とは言えない。壁は剥がれ、床の絨毯は擦り切れて、下のコンクリートが覗いている。窓枠は錆付いて、素直に開きそうも無い。おまけに、カビの臭気が鼻を刺激してくる。バス、トイレも共同使用だ。俺は自分をいましめた。
(我慢、我慢・・・。俺は観光に来たんじゃない、仕事に来たんだから・・・。)

「じゃ、おやすみなさい。」
俺を残して、みんなは部屋を出て行った。早速、荷物の整理をしようとバッグに手をかけた。

「剣ちゃん、まぁまぁ、一杯いこうよ。」
久米ちゃんはグラスを起して、ウイスキーをナミナミと注いだ。普段から、あまりアルコール類は好きではなかったが、今夜は飲んでみたくなった。手にしたバッグを放り出して、グラスを受け取った。

「じゃ、乾杯!」
「乾杯!」
カキィーンとグラスが鳴った。

「頼むよッ、剣ちゃん!頼りにしてるんだから、みんな。」
この久米ちゃんは特殊効果(爆破装置担当)の仕掛け人だ。略して”特効”、なんだか勇ましい名前だ。繊細な神経を駆使する割には、ノンビリと構えている。ヨレヨレの野球帽に、ボサボサの長髪。あまり似合わないクチ髭、日焼けした黒肌。笑うとニタッと虫歯が覗く。誰が見ても、フィリピンかタイ、東南アジア系の人種に見間違える風貌だ。身体も太っていてなかなか頑丈にできている。大変な食通であり、豊富な見識を持ち合わせている。人は見かけに寄らないものだ(これは失礼!)。海外の仕事も多数手掛けている久米ちゃんは、この道のベテラン中のベテランなのである。

「剣ちゃん、荷物が少ないねぇ。」
久米ちゃんは、グラスの底に腹ばいになっているウイスキーを、流し込みながら言った。

「そうかなぁー、これでも多いと思ってるんだが・・・。」
俺の顔は、すでに赤鬼のように真っ赤になっていた。

「少ないよ。これじゃあ、剣ちゃん、国内旅行だぞっ。」
久米ちゃんは、呆れ果てている。

「俺はこれでも・・・。そうかなぁ。」
「少ない、少ないッ!俺なんか、これでも整理して、出来るだけ減らして持って来たんだぜ。」
と、自分の荷物を、二重顎でシャクッた。大型の長方形のジェラルミンケースが三個、それに携帯用のバッグが一個。鍋、電熱器、所帯道具一式、ラジオ、カラオケテープ、味噌、お茶ッ葉、すべてが揃っている。

「ひゃー!」
たまげた。俺は自分のバッグと久米ちゃんの荷物を見比べる。旅慣れた人とはこういうものか・・・。

「そんなに、どうやって持っていくんだ?こりゃ、持ち運びが大変だぁ。」
俺は唸った。久米ちゃんはニタッツと笑い、満足そうに三杯目のグラスを干した。
 
 大陸第一日目は、久米ちゃんの豪快なイビキで明けた。そのエネルギッシュなこと、エネルギッシュなことッ!午前七時起床。俺は寝ぼけまなこで、カーテンをかき分けた。良い天気だ。窓を開けて、大陸の朝の空気を思いっきり吸い寄せた。巨大なポプラが、俺を見下ろしカサカサ音をたてた。おもわず、俺は「おはよう」と挨拶した。

 洗面を済ませ、裏のレストランで朝食を食べる。メニューは、質素なものだ。おかゆとソーメン、ニンニクの茎、インゲンの油炒めとピーナツの煮物、それにアンマン(なんと!中にザラメの砂糖が入っている)。日本円で一人前400円であった。レストランというよりも、学校の講堂のようだ。店員のサービスも悪い。挨拶するわけでもなし、我々が入って座席に掛けても、注文を取りに来ない。こっちから催促して、やっと腰を上げる始末である。それも同僚と雑談しながらだ。

「サービス悪いなぁ。日本なら直に”いらっしゃいませ!何しましょう・・・”飛んで来るぜぇ。商売っ気がたらんよ!」
俺は、カリカリしてきた。

「剣ちゃんっ、此処は中国!日本じゃないの。」
「・・・・・」

久米ちゃんは、話を続けた。
「中国人は、物を買ってもらう、食べてもらう、そういう意識は微塵も無いんだ。ホテル、デパート、露店、観光、タクシー、食堂。すべて、そうだ。売ってやる、泊めてやる、見せてやる、乗せてやる、食べさせてやる、やるやるやる、よ。だから俺たち、自由主義国と違って、媚を売ることも必要ないのさ。言い換えれば、客と思っていない訳だ。」

久米ちゃんの話はまだまだ続く。

(薩摩剣八郎)


第7回 <北京電影撮影所>

待ちに待った北京入りだったが、初めて明かしたホテルには愕然!そこで何とか陳情してホテルを変えてもらった。久米ちゃんには悪いが主役の特権だ。といっても、やっとのことで入れたわけだが・・・・。次に泊まるホテルは、老舗の「フレンドシップホテル」だった。旧ソ連と共同出資で立てた建造物は「王宮」を思わせる。しかし、中はかなりガタがきていた。

9月14日 午前6時30分起床。7時30分朝食のため、中庭を通って食堂に向かう。「ニイーハオ!」「ニイーハオ!」太極拳に興じている人々と挨拶をかわす。みな気さくだ。植え込みには、たわわに実った姫りんごが随所に見かけられた。

8時出発。沿道の自転車の洪水に感心しながら撮影所に向かう。スタッフルームは、赤レンガ作りの兵舎後だった。入り口近くの部屋と、奥の衣装部の隣の部屋が我々の専用に用意されていた。ここにも通りの両側には、ポプラ並木が続いていて、風が吹くたびに頭上で、ザワザワかましい音を立てている。

スタジオには黄金色に輝く大宮殿が聳え立っていた。屋根瓦、ひさし、壁、柱、梁、装飾、それらすべて完璧なセットであった。

大和殿セットのプルガサリ壊し部分を作っている日本のスタッフ

「ほー!」我々は、しばし見とれていた。
「いやはや、こいつは凄い・・・・・良く出来てる」
「剣八ちゃん、壊しがいがあるぞッ」監督が耳元で叱咤した。

ウー!燦然と輝く大宮殿は俺の闘魂をかきたて、ゴジラ魂に火を点けた。
「俺はゴジラだ!ゴジラだぞーッ、薩摩ゴジラに不可能は無い!!今にみちょれッ、薩摩っぽの心意気を、必ず、必ず、見せもすッ」
俺は、群青色の空に向かって吠えた!

ところがこの後、記念すべき大クライマックスシーンの撮影前に、思いもかけなかった事態が発生する事に・・・・・・・では、次回へ。

(薩摩剣八郎)


第8回 <大崩壊>

 さて、撮影当日。俺はみんなより1時間遅れて、大和殿のセットに入った。どうも様子が変だ。冷たい空気が流れている。スタジオの広さのせいではない。どうやら、日本側のスタッフと中国側のスタッフが険悪状態のようだ。久米ちゃん、熊ちゃん、鹿島ちゃん、トシちゃん、日本側のスタッフは大和殿のセットにかじりつくように仕事をしている。ところが、中国スタッフは手伝うどころか、スタジオの隅の控え室の長いすの上にかたまって、のんびりお茶など飲んでいる。大和殿の破壊シーンは明日から始まる。両方一致協力して作業にあたらなければ、間に合わない状況だ。中国サイドがむくれている原因がわかった。彼らの言い分はこうだ。

「我々が三ヶ月もかかって、精魂込めて作った大和殿のセットを、日本人はフラっと入って来て、いきなり傷つけ出した。なんの説明もしなかった。我々は無視された。」

 もちろん、日本側は中国スタッフを侮辱する気などみじんも無い。ただ、いつもの手順で仕事をしているだけなのだ。しかしいくら説明しても、分かってもらえない。
一言、中国の責任者に「これから、壊すための切り込みを入れるよ。」と、ことわっていれば、こんなことにはならなかったのだ。習慣の行き違いからそうなってしまったのだが、一度まがってしまったプライドは容易に元には戻らなかった。結局大和殿の壊しイッサイガッサイは日本側スタッフのみで、やることになったわけだ。

大和殿完成。破壊箇所を再チェックしている美術スタッフ
 
 9月17日、大和殿セットの切り込み爆発準備完了。いよいよ、プルガサリの出番が来た。
何時ものとおり起床し、7時30分に朝食を済ませ、電映スタジオに向かった。初めての仕事だ、いやが上にも五体に力がみなぎってくる。だが、午前中は、特殊効果(火薬の爆発、)、操演(ホコリや建物をねらいどおりに壊すため柱ををロープで結んで引っ張る)、照明、キャメラ、その他もろもろの準備で出番なし。待機して、午後一番セットに入ることになった。シーンは、追ってきたプルガサリが、宮殿の奥深く逃げ込んだ皇帝に気づき、キット立ち止まり、咆哮一声,大和殿を打ち壊わす直前までの動きだった。カット数にして2カット。たったこれだけなのに、夕方までかかってしまった。とどのつまり、初日は、大和殿の壊しまでには到らなかった。我々日本サイドとしては、一切を仕切っているので、なんとしてでも成功させなければならない。失敗すると、゛それ見たことか、たいしたこと無いじゃないか,日本のゴジラスタッフも゛中国サイドに笑われてしまう。念には念を入れて緻密な計算をし、日本でやっている特殊撮影よりもかなり時間をかけ、完璧にも完璧をきした。よって,大和殿の壊しは翌日まわしとなったしだいだ。
 
 スタジオは緊張感で張りつめていた。依然として、中国スタッフの険悪さはおさまっていない。冷ややかな視線の中、本番体勢を整えていった。俺にも、ヒシヒシとその思いが伝わってくる。もしも失敗したら、それこそ中国人スタッフの嘲笑のエサにされかねない。朝鮮側スタッフも、あいだに入って、取り持ってくれたが、無駄だった。

 特効、操演、演出、カメラ、プルガサリ、各パート、おのおのテストし,総合テストを繰り返す。最終チェックして、いよいよ゛本番゛となった。すべてが整った。ヨオーしっ!、俺は、プルガサリの中で渾身の力を込め、ドスン!ドスン!と足踏みを始め、スタートの合図を待つた。(連中、どうしてるかな・・・・・・)気分を高めながら、スタジオの奥を覗いた。さしもの中国スタッフも、息を詰めてみている。といっても、好奇心ありあり、失敗を期待している風だ・・・・・・・・・。

本番直前の破壊箇所位置確認をしている薩摩プルガサリ

「本番!いきまーす」助監督のアサやんが声を掛けた。
「本番!!」中野監督の鋭い一声がスタジオを貫いた。俺は、怒りの一歩を、ドーン!と踏み出し,歩調を速めた。これといった引っかかるものも無い。.歩く距離は十メートル、所々、爆発用のリード線、ホコリ用の空気ホースが進路を横断しているが、ゴジラで鍛えている俺には、チャンチャラチャンチャラよ!。それでも、プルガサリは,二十メートル三万トンの鉄獣だ。重々しく、りりしく、鈍重さを保ちながら「大和殿」に迫っていく。実は、昨日、このくだりは、撮影済みなのだが、俺の気持としては、一気に迫っていって、ぶっ潰したかったのだ。そこで、感情の高まりを監督に陳情した。

「監督!迫ってくるところから,一気にいきましょうよガーッ!と、面倒だ」
「オー,剣ちゃん!やる気だね。よしっ、昨日撮った、迫ってくる゛プルガサリ゛からいこう!。ゴジラの意地を皆に見せてやれ」 
 
 ガオーッ、今だっ、俺は、両手を高々と突き出し,、上体をのけぞるように伸ばし、飛び込むようにして、右の槌拳を、ガツン!と、振り下ろした。

バリバリッ!ガラガラガラ・・・・・・屋根が裂けて、瓦礫がカタマッテ落ちる筈だった。・・・・・・?エッ,ウっソー・・・・・屋根はびくともしない・・・・・、そんな馬鹿な、俺は,左右の槌拳を何度も何度も叩き込んだ。瓦が飛び散るだけで,屋根は壊れない。

「エーイ!エーイ!、何回たたいてもダメだ・・・・・・くそっ、こうなったらやけくそだッ」 
俺は、切羽詰まって、突き出た庇を両手で持ち上げた。

「カァーット!カット,カット、カットー」
中野監督の声がスタジオを走った。(クソッ、大和殿の壊しは、失敗した・・・・・・・・)俺はその場で、呆然と立ち尽くしていた。できるなら、このままプルガサリの中から出たくない。ところが、助監督のアサやん他が走ってきて、あっという間にプルガサリの顔をはずしてしまった。俺は、おずおずと顔をあげた。

大崩壊の後

「・・・・・・・・・・」、中野監督以下日本スタッフが集まってきた。
「監督・・・・・・・・」
「剣ちゃんの意地を見せてもらったよ」
「エッ・・・・・・・」 と、われんばかりの大拍手が一斉に湧き起こった。思わず「大和殿」を振り返った。

 冷笑して見ていた中国スタッフも、大崩壊していく黄金宮殿を目の当たりにして、世界に誇る日本特撮を見直したという。プルガサリの中で、奮闘していた俺には、そのあたりの事情は皆目わからなかったが、崩壊後に沸き起こった感歎の拍手で推し量る事が出来た。まさしく、「ケガの巧妙」とは、このことか?

(薩摩剣八郎)


第9回 <まだまだこれから>

 クライマックス”大和殿の破壊”は、思いもしなかったアクシデントで焦ったが、演出ネライ以上に、迫力ある画面が出来た。けがの功名とはいえ”大成功”だった。お陰で、我々、日本スタッフの顔も立ったし、中国スタッフの不満も吹っ飛んでしまった。

「ええ、どうにでもなれっ!」
やぶれかぶれになって暴れたのが功を相した。こんなところが怪獣演技の面白いところで、「ゴジラ」の撮影のときも、多々あった。まさしく、モンスター芝居の醍醐味である。 それはそうと、北朝鮮で映画を撮るということは、当初から困難だと、分かっていたのだが、「文化は世界共通」隔たりなどあるわけがない。みな一丸となって今日にまでこぎつけた。まだまだ撮影は始まったばかり、先は長い。ここではそのあたりをメーキングしてみよう。

 1985年4月、「プルガサリ」制作における工程を把握するため、美術監督は北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)にむかった。初めの目的は、「燃える田園地帯、沸騰する川、焼ける山野」いずれも、「東宝撮影所」で撮る特撮がらみのロケハン打合せだった。だが、考えてみると、まったく未知の国、政治的な匂いはあっても、こと映画撮影に関してはまったくゼロ、まして”怪獣映画”に日本人が参加した例はない。」なんといっても我々が初めてなのだ。(画期的なことで、俺は、北朝鮮映画に初めて出演した外国人俳優という事になるのだ)
よって、映画製作全般に関わる機材、設備等の視察に変更を余儀なくされた。対象は、デザイン室、大道具、塗装、小道具、造型、張物、木工、背景、などの作業場。植木場、特殊効果、操演室、撮影に必要な工具、機材、材料、フロント、ブルーバック、ステージ、ホリゾント(背景の壁)などの構造。これらのすべてが、細部にわたってチェックの対象だった。しかし、この視察は、北朝鮮に行く前に申さん(プルガサリの監督)がものの見事に証明、暴露?した。

続きは次回。

(薩摩剣八郎)


第10回 <申相玉監督、北朝鮮特撮事情を語る>

「申相玉監督、北朝鮮特撮事情を語る」1985.4.録音


{撮影は新スタジオで・・・}

申監督:(プルガサリの絵を指差して)まあ、これをですね、プルガサリが何ページの何シーンからだんだんどうゆうふうに、大きくなっていくか、そのイメージをですね、お描きになった絵コンテがありますでしょう、その絵コンテを見せながら丹念にこう、彼たち(朝鮮スタッフ)に、納得がいくように説明してやってください。通訳がうまいやつがいますから、日本帰りが。どうゆうふうに巨大化するか、そうして完全に彼たちが納得して、質問を充分に受けて、その、こんなものは有るとか無いとか、それは何か、どうしてこんな物がいるのか、とか、何が無いとか、そう率直な意見を聞いてですね、そしてそれに準じて対応してやってください。あ、それから今ある一番大きい撮影所(朝鮮芸術映画撮影所)で撮影するんじゃなく、今建てられつつあるスタジオ(申フィルムのムンスタジオ)で撮れると思うんですよね。今頃は、梁があがったと思うんですがね。撮影するために2・3百キロの電気(ライト)を東京から取り寄せているんですけど、とにかく、あの、なんですか、トランスの配置もあるんですが、日本スタッフが行く頃にはちょうど出来るようにさせたいと思いまして。

鈴木:はい。(やや緊張気味)

申監督:で、そうゆう手筈を固めているんですけど、とにかく現場に行ってその、スタジオを一回ご覧になることと、一つは、そのなんですが、ブルーですね。

鈴木:ブルーバックですね。

申監督:そうそう、ブルーバックを一応ご覧になって、どうゆう欠点があるか、一応今のままで、出来そうか出来そうでないかということを、中野さん(中野照慶特技監督)に聞かしてあげる為にも、よく見ていただく。僕は、後2・3日北京にいて、みんなと顔合わせしてから帰りますから、別に今晩くわしく聞かなくてもですね。

鈴木:はい。

申監督:僕と全然会わないで、撮影がそのまま進行するのなら話は別ですけど(笑いながら)

鈴木
:はい。

申監督:4・5日して帰りますから、クランクイン前の最終段階の打合せで、僕が立ち会うことになりますから、一応行って連中のその話を、差し支えなく把握してですね、鈴木さんの言いたいことだけ全部言って聞かせてやってください。

鈴木:分かりました。

申監督:今、ホテルに帰った連中を呼び戻していますから。

鈴木:は、そうですか。

申監督:美術担当と衣裳担当ですが、すぐ来ますから。

鈴木:はい、はい、わかりました。

申監督:だいたい、あの衣裳とゆうか考証、こうゆう時代物は、中国三国時代のまあ、古代中国の頃の衣裳でやろうと思うんですけどね。その衣裳考証とか、時代考証がうまくマッチすればもう、中国古代の設定でいいですから、一応中国のものとしてやると、だから無理にスケジュールを8月15日封切りにとってるんですけど、やるだけやって8月以降に延びるなら、しようが無いけれどもそれに合わせて、中国側にやってもらうんだけど・・・、僕が帰る前に、僕に言いたい事なんかありますか?

鈴木:とにかく僕の方はですね、一応撮影所をまず見学させていただいて・・・。

 

{私のスタジオは工事中なんですよ}

申監督:撮影所は、今二つあるんですけどね。一つは、今僕が借りている仮事務所(白頭山撮影所)と保管所、僕がさっき言った撮影所ムンススタジオ、ずいぶん大きな撮影所が今建ちつつあるんです。それが、400坪のスタジオが二つ、200坪が二つ、これが一箇所に全部こう、寄せ集まってるんですね。で、僕が設計したヤツなんですが、(図面を広げて)だいたいこうゆう作りなんですよ。スタジオをこうゆうふうに分けましてね。これが400坪と200坪のが二つ、くっ付いておりましてね。それから・・・

鈴木:(感心して)相当、大きいですね。

申監督:側面から見ると、これはですね、下がガラス張りなんですよね。全部日光が当たるように、その誰でも、仕事する時に明るい所で仕事が出来るように、全面ガラス張りにしたんです。この周りに有るのは倉庫です。

鈴木:ははあ、なかなか凝った建物なんですね。(身を乗り出す)

申監督:はい。これが4階、5階を続くのかなあ。そいでスタジオの周りは撮影関係のオフィスが囲んでいるわけですね。

鈴木:はあ、オフィスがねぇ。(ただもう感心)

申監督:下はロビーなんです。下の奥だけはまだ、取り残してあります。いずれ資料室になるわけです。だから、この撮影のため今非常に急ぐんで、梁だけ上げてくれれば。トランスをいれるとか、この施設を全部完成するまでには時間がかかるから、そこまで待てないからというわけで、とにかく梁だけ上がって(苦笑しながら)、雨漏りさえしなければ、で、まあ、照明は発電機でやる、というつもりで、この間、中野さんがこちらの中を見て、その高さをもっと欲しいというので、天井を上げましたよ。

鈴木:ああ、そうなんですか。

申監督:ええ、一梁か二梁、上がってる筈ですよ。

鈴木:そうですか。

申監督:それから他に、ブルーバックがまあ出来てるんですが、ブルーバックは15メーターなんですが、中野さんにもう少し伸ばしてくれと言われまして、ちょっと迷ってるんですけど。

鈴木:上を高くしてくれと。

申監督:ええ、というのは、スタンダードで撮るのと特撮用のと、二つ建ててくれと中野さんに言われたんで

   そこへ朝鮮スタッフ二人が、入って来る。 

 

{ディスカッションは充分に}

「アンニョンハシムニカ」「アンニョンハシムニカ」

申監督:こっちは衣裳係の金さん、

   「チョムペプケッスムニダ(初めまして)」

申監督:こっちは美術担当の李さん」

   「ダンシヌルマンナゲデオギプニダ(あなたにお会いできて嬉しいです)」

鈴木:鈴木です、どうぞよろしく。

申監督:向こうに、一応ミニチュアスタッフを30名ほど集めているわけです。その人たちにミニチュアに関して説明して、自分のプランをスケジュールを立てて(以後、美術の李さんの意見)僕の言っていることは、鈴木先生の考えている事と違っているかも知れませんけど、だいたいの感じとしては、こうゆうことになるんじゃないかと・・・。申さんが帰ってからあの、こうゆうスケジュールでやるんだと、あんたたちは、こうこうゆうものをいつまで作らなければいけない、そのもの自体とゆうか、時代考証は美術監督がやれと、そう言ってもらったほうが、俺たちはなんぼ熱心になるか。それから、このシーンは(申監督、李さんに話し掛け、朝鮮語の会話が続く)何シーンから何シーンまではこうゆうふうに分けてとか、李さんも拡大セット関係は良くご承知ですから、で、拡大セットを作るには、どうゆうものがいるんだとか、先にこうゆうものから撮影するから、これを初めに作ってくれとか、その全部をどうゆう手順でやれとか、細かく説明して協力してくださいよ。

鈴木:わかりました。打合せを綿密にやって双方納得してから、作業にかかるよう、そして楽しい仕事をしましょう。

申監督:こっちは日数として空いているから、建てることはうまく建てるかもしれないけど、どこどこを壊すとなるとピンと来ないんです。壊す場合は、爆薬を使うのかどうするのか、全然こっちは経験が無いんだから、まあ、朝鮮の場合は発泡スチロールを作っていないんですよ。無いんですよ。まあ、もちろん必要だから日本から取り寄せるとか、でまあ、ディスカッションしているうちには、だんだん分かるようになる筈ですから。そうすると僕が着く頃には、いろんいろんな問題が一つ一つクリアされて、いい状態になりつつあると思うんです。

 

{特撮が中心、本編は付録です}        

申監督:で、鈴木さんは、あの、今回の10日間の間で、特に注目している事とか、調べる物とか、あるいは中野さんに・・・

鈴木:僕が監督に言われたのは、とりあえず、北朝鮮のスタジオの状態をよく調べてくること、それから、いろんな特殊な、例えば扇風機とかスモッグとか、発煙筒等、どんな状態で置いてあるのか、それと操演関係の必要品のチェックとステージの構造、それと本編でロケするお寺、ならびに建造物の種類を歴史、ロケ先のハンティング等をクリアしてきてくれと中野からは言われているんですが。まあ、それに基づいて、拡大セットみたいなものは、先に出来るだろうから、それだけでもこちらの美術担当の方と話し合って、少しでも早くセット作業にかかれるようにしてもらいたい。しかし、現状は、どれをどうゆうふうな手順でセット割にして、どこから始めるか、というプランまで進んでないんです。

申監督:だからね、あの、もし、鈴木さんが10日間のうちにその辺のところを・・・。

鈴木:そうゆう所の出来る範囲をできるだけクリアして、手に付けられる物から、先に建てて行こうと・・・。一つでも二つでも、決めていけばいいと思っているんです。

申監督:今、扇風機とか操演に関する話が出ましたが、北朝鮮事情はこうゆう状態ですから、日本から操演に関しては何かまあ、どれほどものを持ってくるかわ知りませんが、こっちには全然無いと思うんです。だから、初めて見るものばかりだから、その使い方も分からない。スモッグの作り方や発煙筒の噴煙の使いみちなど手ほどきしてもらって、またカポックなどの造作、石膏の作り方などね。それから、この10日間の間に、合間を縫って、本編と特撮のカラミをキチッとしないと。

鈴木:そうなんです。キチッとしないと。

申監督:キチッとしてほしいんですよね。そしてコンテに描いておけば、それに準じてこっちは本編を撮っちゃうつもりですから。

鈴木:それがまず、出来ていないと、なんかチグハグになってきますね。後でどうしようもないことになって来ますから。無駄な仕事をするような形になっちゃう。本当は本編のセットを先に組んで、そのシーンに合わせて特撮のコンテを描いてですね、特撮を組み立てていく。

申監督:(急に身を乗り出して)いやいや、それよりも、逆ですよ!本編は特撮に追従しなくてはいけないと思うんで、特撮はこうゆうことしかやれないんで、こうゆうふうに行くんだと、だからここから繋いでこうゆう場面を撮れと・・・。要するに、特撮の方から本編に命令してくれないと、今度のプルガサリ撮影は、駄目だと思うんですよね。本編は特撮に合わして撮らないと

鈴木:そうですか。それはやりやすいです。日本とは逆ですね。

申監督、朝鮮美術スタッフと会話した後、

申監督:今度は特撮のミニチュアセットの制作過程について、彼(美術係)が言う事には、(図面を広げて)一つ一つの建物をどんなふうにどのくらい縮めると実際の何十分の一になるかと。

鈴木:それは、これから絵図面を描いて、打合せをしますから、その建物の何十分の一であるから、どのくらいの大きさで作ればいいか、よく分かると思います。

申監督:あと、王様の王宮(紫禁城)を踏み潰す場面は紫禁城のビデオテープを売ってますよね。それをご覧になって、本当は僕も鈴木さんと一緒に紫禁城に行って、話し合って・・・。けど、時間が無くて行けなかったんで、みんなでテープをご覧になって、ここをこうゆうふうに壊すんだぞと、建物をこうしろとか、こうゆうものがあるからとか、言った方がいいですよ。鈴木さんはね。

鈴木:はい。

申監督:壊し方の段取り、手筈を説明してやって、そして北朝鮮にいるスタッフにどうゆう特撮映画で実際の家の何十分の一になるか、特撮映画の連携プレーがいかに大事か、鈴木さんの言いたい分を言ってくださいよ。それから、この前、中野さんが持ってきた絵コンテが出来上がったものでしょうが、本が少し変わったしそれを書き加えて、徹底的なもの(にしてほしい)ですね。後で撮る時、変わるかもしれませんが、本編との繋ぎだけははっきりと・・・。えー、5月頃には本編の撮影に入ろうと思うわけですが。そうゆうことなんで、一遍スタジオを見て、僕が今申し上げたようにみんなに言って下さい。

鈴木:ミニチュア撮影は、根気のいる上に繊細な神経を駆使しますから、それに不可能を可能にする魔法の鏡みたいな特典を大いに含んでいるわけですから、ホコリ、一木一草、まして爆発、建物の破壊となるとまあ、そんな面も含めて、良く説明します。

申監督:そのへんを把握させてください。あ、それから、ホテルはあるけど女はおりませんから(笑って)。休養するつもりで。で、僕の寄宿ハウス(正日書記の別荘)があるんですよね。そこにお泊りになると思うんですけど。

鈴木:そうですか。

申監督:鈴木さんはスケジュールの方も関与してるんでしょう?

鈴木:いえ、スケジュールは助監督がやってます。特撮のスケジュールはほとんど美術の方を中心ですよ。

 

{北朝鮮にはホリゾントをうまく描く連中がいない}      

朝鮮スタッフ、挨拶して去る

鈴木:あ、おやすみなさい。美術が出来なければ、撮影したくても出来ない状況ですから、かなり密接です。

申監督:それから鈴木さん、北朝鮮にはホリゾントをうまく描けるヤツがいないと思うんですよね。日本のホリゾントの連中は忙しいんでしょうね。

鈴木:そうですね。ホリゾントもその坪数、大きさによると思うんですけど、空みないなものだと割と早く描きますから、あの時間を決めてね。描いてすぐ塗って待っていれば、そんなに時間はかからないんじゃないかと思ってるんですが・・・

申監督:とにかくあの、特撮というのは戦争映画はやってるけど、怪獣映画は一度もやってないから、やったやめしは無いんですよ。

鈴木:そうですか。

 

{プルガサリは世界配給するつもり}

申監督:持ち道具も、例えば筆、ハケ、ブラシなどなんかも揃ってないかもしれませんから、そんなの潜在能力は非常に大きいんだけど活用されていないんで、僕が「プルガサリ」を企画した理由はたくさんの人間が安い人件費で動かされるし、その点、手のかかるミニチュア撮影は最適でと思ったんですね。やる気があるんだから、そのノウハウさえ身につければ、日本では出来ない事でも出来るわけですよ。例えば、やる気があるんですから、そんな所をうまく利用して億単位のオプチカルを、あなたたちも日本で出来ない事がやれて、結局金儲けになるからやらしてあげたいんで。この「プルガサリ」は娯楽性の高いものとして、「東南アジア」ないし「世界配給」するつもりでいますから、どうか遠慮せず、レギュラーな仕事をやってもらいたい(笑い)。

鈴木:(笑い)わかりました。ただ僕はまあ、この本を見させてもらいましてね、あの8月15日上映と聞いたんですが、僕が今まで経験してきたぶんりょうなどからすると、ちょっと・・・

申監督:むつかしいと。

 

{鈴木さんの使命は、朝鮮スタッフに、特撮をじっくり叩き込むことです}

鈴木:(笑いながら)本を削るか、または質を落とすという事でないと。

申監督:(笑って)わかりました。それだけはね。目標を立てないとウチワの悪口を言うようだけどね、社会主義自体(北朝鮮)がそうなんですよ。目標を立てないかぎり、ズルズルベッタリなんですよ。(笑って)まあ、資本主義社会もそうだけど、「これだけはやるんだ」と押し込んで行かないともう何年かかるかわからないし

 

{初めは、有川貞昌さん(ゴジラの息子の特技監督)に話をした}

鈴木:わかりました。だからこそそうゆう準備をキチンとしていかないと。

申監督:とにかく、鈴木さんが長年培ってきたキャリアから「これはこうだ」「あれはこうするんだ」と相手(北朝鮮スタッフ)に納得させてやることが、鈴木さんの使命であり、目的だと思うんですよね。一口に言えば、「ミニチュアとはこうゆうもんだ」ということを、もちろん北朝鮮で立派にやってる人もいますよ。質の面から僕は言ってるわけでね。今度、有川さん(「ゴジラの息子」特撮監督の有川貞昌氏)から中野さんにかえた理由もそうなんですよ。今度の映画は内容的にも優秀なものを作るという事で、制作費も思い切って奮発していますので。

鈴木:有川さんも来たんですか。

申監督:初めは有川さんに頼もうと思って会ったんですけど、有川さんが駄目だというわけじゃないんですけど、やはり一人でやってる有川さんは何かと無理が生ずると思いましてね。どうせ、東宝に頼むなら、東宝のスタッフにかんでもらった方がいいんじゃないかと、まともな映画を作るにはそれなりの実績の有る会社に依頼した方が、より得策ですからね。

鈴木:有川さんとは、香港のショーブラザーズで撮ったことがあります。

申監督:一緒に、そうですか。僕も何本かあるんですけどね。今回は・・・

鈴木:(決意をあらわに)わかりました。とにかく全力をつくして面白い特撮物を撮りましょう。

 

{連中はプルガサリが仕事始め}

申監督:無いものは、全部日本から取り寄せますから、何にも無いという前提で行ってください。労働力はやろうと思えば、いくらでも動員できますから。今まで、僕が話してきた特撮スタッフは、僕が二つあった特撮グループを一つにまとめて編成し直したんです。だから、まとまっているけど、リーダーがいないんです。連中はこの映画が仕事始めになるわけです。新スタッフのリーダーは、あんたたち日本人になるわけです。(立ち上がりながら)おやすみなさい。

鈴木:おやすみなさい。

申監督は、この映画「プルガサリ」に賭ける並々ならぬ決意を披瀝して、部屋を出て行った。


鈴木氏の初期案は,コマ撮り、実景等の合成班を別にもうける。拡大セット撮影も別班が撮影する。また,人物合成(ブルーバック合成)班も別に作る。また、スーツアクターは最低3名必要。ステージは特撮セットが3ステージ。合成用に2ステージ。拡大セット用に1ステージ。

(薩摩剣八郎)


薩摩剣八郎氏直筆の「プルガサリ撮影秘話」です。

舞台はいよいよ北朝鮮へ向かいます。


第11回 <いよいよ北朝鮮へ>

9月21日、土曜日、晴れ。
 11時、北京電影撮影所を発って北京空港へ向う。行き先は北朝鮮の平壌。11時58分、北京空港着。空港のレストランで昼食を済ませる。15時ちょうど北京空港フライト。17時半、平壌空港着。ここもご多分に漏れず殺風景だった。税関検査を終えて出口に向う。そこには身なりのきちっとした、一目で関係者とわかる3人の男たちが待っていた。案内されるままにベンツのマイクロバスに乗った。道路の広いのときれいなのに我々は驚いた。おまけに対向車がまるで走ってこない。スピード計はどんどんウナギのぼり。空港があっという間に消えてしまった。走っても走っても人家はみあたらず、稲穂の波が続く。(この時分はまだ米に不自由していなかった)車はそのまま金正日氏の別荘に直行した。VIP待遇で出迎えられる。19時、歓迎会を兼ねた夕食会が催される。24時半、就寝。

金正日氏別荘の正門

画:薩摩剣八郎

9月22日、日曜日、晴れ。
 昨夜は、12時30分就寝。ホテルなみの豪華な寝室。ダブルベッド。朝方まで熟睡。造型の松ちゃんに起こされて目が覚める。 

ダブルベッドにズボンプレッサー、総大理石のバス。天井が高く広い部屋。初めはこの部屋に薩摩氏一人で泊まっていた。

撮影:薩摩剣八郎

 8時20分、二号閣を出る。50メートルほど下にある三号閣で、朝食をとるためだ。食堂には、円型の大テーブルが二卓ならべてあり、窓際の机の上にテレビがあった。型が古く、二号閣の日本メーカーのテレビとはくらべようもない。ここで働いている接待娘たちにとっては、日に数えるしか見る事の出来ないテレビが唯一の楽しみとか。別荘には、金 正日書記も、側近たちと度々訪れ、この円卓をかこんで宴会を開いていたのだ。さすがに、日本スタッフが泊まっている間は、意識していたのか、一度も姿を見せることはなかった。朝食のメニューは、トースト(パサパサしてすぐ粉状にくずれる)、ヤギの乳(匂うので牛乳に変えてもらう)、大根の千切り炒め、ハム、ベーコン、卵料理、果物(りんご)など。三号閣の建物の横には、日本スタッフ送迎専用車、ベンツのマイクロバス(20人乗り)が待っていた。食事を済ませたスタッフは、順々に「アンニョンハシムニカ」「アンニョンハシムニカ」と、運転手の李さんと挨拶を交わしながら、バスの中へ。9時の時報と同時に、バスは、ププッとクラクションを鳴らし、出発して行った。一緒に見送っていた接待員の女の子たちも、姿が見えない。
 一人残った俺は、別荘の中を散歩する事にした。広大な敷地の中には、種種雑多な樹木が生い茂り、その葉は、残暑を引ずっている真っ赤な太陽さえも、遮っている。
 一号閣(申 相玉、雀 銀姫夫妻の宿舎)と二号閣(日本スタッフの宿舎、金正日書記専用の宿舎か?)は、赤松、どんぐり、ナラの木に囲まれた、敷地の頂上に並んで建っていた。二号閣から車道を思わせる坂道を、正門の方向へ、下っていくと三叉路になっていて、やや傾斜が緩やかになる。ムクゲヤシャクヤク、ツツジなどの潅木がまわりをかこむように植えてある。ここは、一号閣と二号閣、食堂のある三号閣の分岐点になっていた。マイクロバスがUターンできるほど広い。三号閣通りは玉石を埋め込んだ石畳の道で繋がっている。40メートルほどあろうか、突き当りが三号閣だった。途中に、珍しい六角屋根をした、マージャン専用の建物があった。三叉路を左の塀に沿って、まっすぐ100メートルほど下っていくと平地になっていた。広い。運動場の中に木が茂っている感じだ、やや、まんなか辺りで道は左右に分かれていた。そこは築山になっていて雪見灯篭や枝ぶりの良い五葉松が植えてあり、日本庭園になっていた。左に行くと正門へ、右側は三号閣と接待員宿舎の方にのぼっていた。正門通りの方へいくと、道の両側にポプラ並木がつづき、50メートルほど先には、頑丈な鋼鉄の門がでんと立ちふさがっていた。が、正門は開いている。誰もいない。今なら外に出られそうだ。俺はそっと門をでた。とたんに、警護の兵士が現れた!「ダメだ出てはいけない」といっている。俺は「ちょっとだけこの辺を見たい、直に戻るから・・・」別荘に入ったら絶対外には出られないよ。前に来たスタッフからそう聞いていたので、俺はあえチャレンジしてみた。兵士は無言で立っていたが「OK!」あっさり通してくれた。拍子抜けしたが「サンキュウ・・・・」俺は、お礼を言って、下の道路まで歩いていった。しばらくして、人の気配を感じ後を振り返ると、監視役なのか兵士が二人ついてきていた。(いつの間に・・・・・さっきの兵士とは違う。まあいいや、ノンビリ森林浴といくか)。別荘は松林や雑木林に囲まれ、人が住んでいるとは考えがたし。りんご畑が続いている。(小さいリンゴだ。間引きや手入れするともっと大きくなるのに・・・)じっと見ていると、「もう帰りましょう。」両脇を挟まれて別荘の中に引き戻されてしまった。

9月23日、月曜日、晴れ。
 スタッフは、9時に出発して行った。今日も出番はない。俺は二号閣に引き返した。みんなが出かけたあとの部屋は、ガランとして不気味なほど静かだ。ときおり、裏山で雉の鳴き声がする。
退屈しのぎにテレビのスイッチを押すと、どこかで見たことのある映像が現れた。
「ありゃりゃ? NHKのテレビ体操のお姉ちゃん達だ!どうなっているんだい・・・・」
俺は我が目を疑った。国交のない北朝鮮で、日本のテレビを見ることができるなんて・・・。信じることが出来ない。俺はリモコンを片端から押してみたが、NHK以外の番組は映らなかった。ほかにはチャンネルがない。後でわかったことなのだが、それはNHKの衛星放送だった。正式には1989年開始である。でも、試験放送が5年前の1984年に始まっていたという。おれが見たのはその翌年。つまり金正日氏は、日本人でさえまだ受信していない家がほとんどだったその頃から、すでに見ていたことになる。
 ゾクッとして振り返ると、女の子が立っていた。掃除に来たという。俺は「どう?」とテレビを指差して、彼女たちにたずねてみた。すると二人はしかめっ面をして「ダメダメ、見たくない、日本のテレビ全然興味ない」というジェスチャーをした。本当に日本を嫌っているようだった。というより、俺達が、北朝鮮のテレビ放送をみて、違和感をあらわにすると同じように、彼女達も又、日本のテレビに感じているらしい。

9月24日、火曜日、朝方雨が降っていたが、のち晴れる。
 今朝は、6時30分起床。7時30分朝食。メニューはいつもと変わらず。セットの建てこみが遅れて、プルガサリの出番はまだだけど、今日一日、スタッフと行動する事にした。8時の時報が鳴った。
「行ってらっしゃい」
別荘の人たちの見送りを受けて、バスは三号閣横の駐車場から、一気に駆け下りた。此処に来て初めての外出。いかに静かで広い別荘の中とはいえども、閉じ込められていると、塀の向こう側に出てみたくなる。正門が見えてきた。事前に連絡してあるらしく、鋼鉄の扉は開いていた。警護の兵士が立っていたが、バスが来るとキチッと敬礼をした。我々が通り過ぎると、門は固く閉ざされた。
バスは真っ直ぐ平壌市内に向かっていた。トントンと、後ろから肩を叩かれ、振り向いた。
「ほら!見てみな」
美術のヨシさんが、指差して言った。見ると、道路に坐っている野良着姿のオモニたちだ。
「毎日ああやって、道路の掃除をしてるんだよ。な、だからほら、ゴミ一つ落ちてないだろう」
ヨシさんは、自分が掃き清めたと言わんばかりに、得意満面だった。俺は、言われるままに、道路を見た。なんとオーバーなヨシさん。よし、ゴミを探して、ヨシさんの鼻を明かしてやる、と思ったけれど本当に見事に掃き清められていた。
「へえー、平壌からかなり離れたこんな郊外の道路でも、きれいに掃除してるんだね、イヤァ、おどろいたねー。この国の政治や国民性の潔癖さがこんなところにも現れているとは・・・」
「びっくりしたろう」
「なんか無駄な事だと思うけどねぇ。もっと他の事をした方が・・・」
バスは猛スピードで走っている。渋滞など全く無い。長山通りを走って、まもなく大通りにぶつかった。
「文徳通りだよ。西平壌駅から繋がってるんだ。」
左側に白亜の建物が見える。
「きれいな建物だね」
「ああ、あれは平壌外国人病院だ」
道は長山通りから、凱旋門通りに入った。左側には、友誼塔や遊園地などがある。凱旋門(1982年建設)が、迫って来た。すると、バスは右折して、半円を描くように走って、ふたたび凱旋門通りに戻った。後で、「何で急に避けたの?」李運転手に聞いたら両手で大きくバッテンしていった。
「日本人は凱旋門を通る事は、出来ない。朝鮮人の敵だったから・・・」
やがて、七星門通りにさしかかった。この辺りになると、道の両側には高層アパートや建築工事中の高い建物が多くなった。街路樹は、杏の木だった。はじめ、満開の花を見て、俺はてっきり桜並木と勘ちがいした。それに、木の周りの緑石と、幹は根っこから約55センチ上まで、真っ白くペンキで塗ってある。つまり景観をよく見せるため化粧してある訳だ。害虫予防のため塗ってあるとはとても思えない。この“化粧街路樹”市内のあちこちで見せつけられる。杏の木は“千里馬銅像”近くまで伸びていた。

“化粧街路樹”の貴重な写真。よく見ると根っこから上が白くペンキで塗ってある。右は拡大写真。(左右写真の実際の場所は違う)

撮影:薩摩剣八郎

杏並木の手前奥に壮大な競技場が見えた。
「これが金日成競技場だよ。これも、凱旋門と同じ1982年、ジョンイルさんが作ったんだ」
「へえー、ああ、あのマスゲームで有名な。ここかぁ・・・」
目の前を木銃を肩にかけた高等中学男子生徒の列が、ぞくぞくと吸い込まれて行く。学課の中に戦闘訓練もあるのか?それとも日本でいう体育実習なのか!競技場の裏は小高い丘になっていて、「牡丹峰(モランボン)公園」だそうだ。ここは平壌で、市民に最も親しまれている場所であるという。この公園の端にある牡丹峰劇場の前方には、「朝鮮革命博物館」が見える。正面には、全身金色で覆われた、「金日成主席」の像が立っていた。高さは、23メートルもあるという。バスは勝利通りに入った。日本でいえば、銀座というところか。通行人も車も、少し増えてきた。ここまでバスは、ノンストップで駆け抜けてきた。この通りと、平壌駅から伸びているボドウナム通りが交差する地点は、8.15解放前には、日本人街だったということだ。バスは、万寿台通りの交差点でやっと止まった。
「?!」信号が無い。変わりに、水色の制服を着た交通安全員が、交差点の真中に立って、車の混み具合を判断して誘導している。両手に30センチほどの、紅白の棒を持ってオモチャの兵隊のようにカクッカクッと90度回転して、車に指示している。信号機の設置は、首都の景観を損なうからということよりも、実際は走っている車の台数が少ないので、時間作動する信号機より、警察官による臨機応変な誘導のほうが、混雑緩和に役立っているということらしい。近くに、「人民大学習堂」、「平壌第一百貨店」「金日成広場」「学年少年宮殿」など7、があった。勝利通りの方から児童の列が、歩調をとりながら行進して来た。女の子は紺のスカートに白のブラウス。頭には赤いバラの造花。男の子は紺の制服に、帽子をキチッと被っている。各隊ごとに年長者が付いていて、革命歌を合唱しながら、一糸乱れず学年少年宮殿の方に向かっていた。「気持悪いくらい揃っているね。これは小さな軍隊だ・・・・」俺は思わず口走っていた。
 8時50分、白頭山撮影所到着。三階の申フィルムに向かう。控え室で、全員揃うのを待つ。日朝スタッフが集まったところで、ミーティングした後、各パートに分かれて持ち場に向かった。俺の出番は、あと3・4日後になるという。
「まいったね俺だけヒマだ。一人で、不慣れな平壌市内をうろつくわけには行かないし、どうしよう・・・・。かといって、一人で別荘に帰れるわけがないし」
自由行動は、平壌初日に絶対やめろと忠告されていた。あの時俺は、その真意が掴めなかった。通訳にたずねた。
「どうしてですか?」
「わが国の規則ですから・・・」
「少しくらいいいでしょう」
俺は詰め寄った。
「絶対ダメです。一人で歩くのはやめてください。決まりです。身のまわりに間違いがあったら困ります」
北朝鮮では、外国人と接触するとスパイ罪に問われるとか。ヒエー、怖い。
「松ちゃんたちと一緒に、大同江にでも行ったら・・・・」
ヨシさんの一言で、造型の仕事場を見学する事にした。他に、朝鮮美術スタッフが二人、通訳、監視をかねた李さんも一緒だった。
 この日は、自分では美術スタッフの手伝いをしたつもりであったが、松ちゃんに
「薩摩さん、手伝ってくれる気持はありがたいけど、かえって余計な仕事が増えちゃってるんだよねー」
と、嘆かれる始末で、結局は“足手まといの剣ちゃん”で終わってしまった。

9月25日、水曜日、晴れ。
 「アンニョンハシムニカ」「チャルカッタオシプシオ(行ってらっしゃい)」、4人の接待員娘たちも、精一杯馴染もうと努力しているのだろう。この頃は、バスが出発する5分前には全員揃って顔を見せ、見送ってくれるようになった。4人の娘(タル)たちは、年長者の朴キョンエ、金 先玉、韓 正和、朴さんの妹で朴 金順、それぞれが笑顔で接してくれるようになっていた。

親身になって世話してくれた北朝鮮の娘達

画:薩摩剣八郎

 今日は、朝鮮スタッフの案内で「朝鮮芸術映画撮影所」を見学した。さすがに、朝鮮で一番大きい国営の撮影所だけあって、建造物のスケールが、日本の撮影所とは格段の差を感じるほど、立派な建物だった。正門には、兵隊が立っていた。高校生くらいの年恰好だったが、自動小銃に着剣して見張っていた。中は区画され、道路はきれいに掃除してあってゴミひとつ落ちていない。四六時中、拡声器から労働者を高揚させる声が響いてきて、我々は耳が痛くなった。各施設や車両(大型ロケバス、マイクロバス、トラック、乗用車等)は、みな新車のベンツだった。我々の送迎用マイクロバスもベンツで、「申フィルム」が芸術映画から借りていたのだ。この車が市内を走っているだけで、通行中の人々(人民)は、一様に羨望の眼差しを向けてきた。
 オープンセットの裏山で、大勢の人たちがコンクリートの壁を作っていた。一般の人は少なく、兵隊が多い。日本では、ミキサー車で運んできて、ポンプ式で注入していく。ここではすべて手動。人がスコップで練って、バケツにいれて持ち上げ、それをリレー式で型枠の中に入れる係りに渡すという、かなりの重労働だ。機械を使っている日本でさえ男の仕事なのに、若い女性も混じって、ものすごい勢いで作業をしている。みんな男か女かわからないくらい顔が汚れていた。 
通訳の金 列堂氏と初対面の挨拶を取り交わす。
「形式ばった挨拶よりも、心と心をチェンジしましょう」
金さんが、言った。この金さん、年の頃、46、7歳というところか。茶色がかった髪を7・3に分け、角張った顔に太い眉、ヒトへで細い目。日本の歴史や地理にもかなり詳しい。見るからにおとなしそうに見えるが、なんとなく馴染めないところがある。(俺の先入感か?)
マイクロバスは、芸術映画を出てムンススタジオに向かった。玉流通りを進むと、5、6分で万寿通りに突き当たる。交通安全員の手信号に従って、左折すると大同江が見えてきた。車は玉流橋にさしかかった。右前方には、この国のシンボルである「主体思想塔」が聳え立っていた。かなたに「大同江橋」が見える。「大同江橋」と「玉流橋」の間に二機の噴水塔が設けてある。「主体思想塔」の建設にあたっては、200人以上の死者が出たという。安全第一というより、建設第一ということになる。なんとも怖いことだ。落下防止のため、ロープを腰に巻き付けて安全帯の代わりにしていたという。じゃあ、足場はどういうふうに組み立てていたんだろう。ゾッとする。

申監督のために建設されているムンススタジオ 撮影:薩摩剣八郎

 19時、別荘で夕食。話題は、芸術映画の広さに集中した。みんな感心したり、驚いたり。ちなみに、申監督のために建設しているムンススタジオは400坪のスタジオが2室、200坪のスタジオが2室、録音スタジオが6室、劇場兼試写室が6室、美術装置室及びスタッフ控え室が300室、4階建てで2万坪の広さだ。最新式の撮影所で、金正日氏がわざわざ作らせているものだった。

(薩摩剣八郎)


第12回 <旭商会と普通江(ポドンガン)とサントリービール>

「旭商会」

平壌市中区坂慶筒洞撮影所内「プルガサリ」。これが、申フィルムの仮事務所であった。この住所で、日本からの郵便物、荷物も到着した。電話だって通じる。俺が考えていた以上に、この国は開かれていた。通話は中国の北京経由東京、となるのだが、話し声は国内で話しているかと思うほど、明瞭に聞こえる。別荘に居る頃は、一週間前に申告し、許可がおりると解放山通りに面した、「平壌国際郵便局」まで送ってもらい日本に電話していた。蒼山光ホテルに移ってからは、自由に電話出来るようになった。ただし、部屋には電話がない。一階に降りてフロント申し込む。あとはソファに腰掛け呼び出しを待つだけだが、国交が無いために状況によっては、回線が繋がるまでがまちまちで、早いと五分ほどでつながるが、混んでいる時は、何時間待ってもフロントの呼び出しはかからなかった。料金は、一通話二千七百円ほどだった。

申フィルムの仮事務所の玄関

撮影:薩摩剣八郎

日本特殊撮影技術スタッフの一員として、平壌入りしてから十六日間が過ぎたある日、初めて外人専用のデパート、「旭商会」に立ち寄る許可が下りた。「旭商会」は、大同江(テドンカン)の支流、普通江(ポドンカン)の近くにあった。デパートといっても、外観は飾りつけもしていないし、垂れ幕も下がっていないノッペリとした、コンクリートの表面が目立つ二階建ての建物であった。さして目を引き付けるようなものは何も無かったが、平壌入りして初めてショッピングする珍しさもあいまって、急いで中に入ってみた。店内は、日本のスーパーマーケットを一回り小さくしたかんじで、中央の通路から真っ直ぐ進んだ突き当りに、二階への階段があった。通路の右側に、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、ラジオ、炊飯器などの電化製品。左側のボックスの中は、化粧品売り場になっていた。奥のほうに、スーツ、ジャンパー、コート、靴下、下着など衣料品売り場になっていた。カラフルなセーターを一枚手に取ってみる。高い!日本の三割増しだ。品物の質より、売値を気にして見るのは、俺の長年身体に染み付いた貧乏根性がぬけていない証拠か?このクセは恐ろしい。どこに行っても貧乏人は貧乏人だ。苦笑しながら、くの字形の階段を上がってみる。お客は二階に集中していた。階段を上った正面が、カメラ、時計、ネックレスなどの貴金属品売り場になっている。が、その数も質も不足していた。貴金属売り場の後ろ側は、煙草(日本製)売り場になっている。大部分のスタッフは、ここにハイエナのように群がっていた。みんなの欲しがっているのは、煙草か酒、この二種類が主であった。その点俺は、ちょっと違った。甘党だから羊羹や甘納豆、缶ジュースを捜してまわった。
日用雑貨売り場で、携帯用のティッシュを探したが、何処にも見当たらない。店員にたずねていると、百科ゲリラが来て
「そんな物あるわけないだろう。無理だよ、剣ちゃん!店内を見ればわかるだろうが・・・。」
そう言って、百科ゲリラは俺をからかった。会話を珍しそうに聞いていた店員は、意味が分かったのか、
「すみません。」
と、笑顔でこたえた。
 左奥が食料品コーナーになっていた。ここにあるすべての商品が、全部日本メーカーの製品であることには間違いがないのだが、中にはどう考えてみても、日本製とは思えない明らかに模造品が、日本メーカーのネームやラベルを貼り付けてあった。特に多いのは、食料品売り場のお菓子類であった。 
売り場の店員たちは、どの娘も日本語で挨拶をしていたが、
「いらっしゃいませ」「なにいたしましょう」「ありがとうございました」「またどうぞおこしくださいませ」
決まった笑顔で繰り返される言葉は、朝鮮なまりが強かった。
 俺は食料品売り場で、缶ビール、缶ジュース、缶コーヒー、のり、カップラーメン、別荘の娘たちのお土産に、チョコレート、ガム、羊羹など、約五千円分の買い物をした。

申フィルムの仮事務所窓から見た駐車場の写真

撮影:薩摩剣八郎

「はい!おみやげ」

あたりはすっかり、闇に包まれてしまった。広い道路も、りんご畑も松林も。マイクロバスは、上機嫌で別荘の門をくぐった。玄関先の灯りが淡く揺れている。俺は、ドタドタッとわざと大きな音を響かせ、部屋のドアを開けた。この日出番のなかった相棒のマーちゃんは、ジャージのまま、ベッドの上に寝転がっていた。
「ただいま!」
「おおう、おつかれさん!」
太った身体をちょこんと起こして、ニコッと笑った。
「買ってきたよ。」
旭商会から買ってきた缶ビールや、羊羹の入っている紙袋を、目の高さまで持ち上げながら、ツカツカと部屋の中に入って壁際の椅子の上に置いた。
「おおう、どれどれ。」
マーちゃんは、いきなり床に飛び降りた。反動で足がすべり、きちっと並べていたスリッパの片方がベッドの下にすっ飛んでしまった。マーちゃんは片方のスリッパだけつっかけて、パタッ、パタッと歩いてきて紙袋を覗き込んだ。なにやらモグモグ独り言を呟きながら、中の品物を一つ一つ確認して取り出した。
「これはパクさんの姉。こいつは妹の方。これはキンさん。こっちはハンさん。そしてハイモンさんの。ビールと煙草は、キン支配人とコックのキンさんの分。」
僕のベッドの上にえり分けて並べた。こういう時のマーちゃんは、実に楽しそうである。
「日本に帰りたいよ。早く返してくれよ」
製作担当に泣きついていたあのマーちゃんとは思えない。(そうか、マーちゃんも俺と同じだなぁ。娘たちと話をすることで退屈な塀の中の生活を紛らわそうとしていたんだ)
「よし、行くぞ!」
マーちゃんは、両手いっぱいにお菓子を抱え込んで、うれしそうに出て行った。
 娘たちは、食堂の椅子に、順序良く並んできちんと腰掛け、テレビを見ていた。
「ハイ、日本のお菓子、スゴエスミダよ。」
と、マーちゃんが言った。さすが、マーちゃん。娘たちの人気者。娘(タル)たちが周りに集まってきたのは、あながちお土産のせいでもないようだ。
「カムサハムニダ。」
娘たちが、感謝の気持を表した。
「チョンマネヨ。」
俺はちょっぴり得意になって、おぼえたばかりの朝鮮語で応え、持っていた缶ビールと煙草を円卓の上に置いた。
「これはキム支配人とコックのキンさんの・・・」
すると姉のパクさんが、厨房の中へ駆け込んで行った。彼女はすぐに、コックのキンさんとまかない手伝いの許さんの手を引いて出てきた。コックのキンさんは、俺たちの細かい注文を真剣に聞き、時には絵を描いて作り方や材料をメモし、酸っぱい、甘い、辛い、水っぽい、とまあ、なにかとこんなふうに、食い物に口うるさい日本人の料理一切を毎日工夫して、一人で献立し作ってくれた。本当に頭が下がる。お菓子を押し頂くようにしているまかない手伝いの許さんは、韓国のトップ女優だった雀 銀姫(チェ ウニ)さんの身の回りの世話をしていた人だ。雀さんは香港滞在中、北朝鮮工作員の手によって拉致され、東北里の招待所に隔離されていた。そこで許さんは雀さんと初めて会ったという。五年後、雀さんは申監督(別々に拉致された彼女の夫)と劇的な再会を果たす。金正日書記は二人を今の別荘に一緒に住まわせ、映画作りを指示した。その後、申夫妻が亡命するまでの七年間、雀 銀姫さんの世話係りをしていたという。当時、許さんは五十代半ばだったというから、我々が滞在していた頃は、六十歳前後ということになる。彼女は、華奢な体つきで苦労のあとが窺えるが、ものごしは柔らかで、それでいて信念の強いおばさんだった。 

俺たちが別荘を去る日、許さんが俺の手を握ってカタコトの日本語で語った。
「私も、朝鮮戦争で家族と生き別れになってしまったのです。いまだに、消息がつかめなくて・・・。早く、南も北もない平和が来るといいです。」
「・・・・・」
許さんも、悲惨な戦争に巻き込まれた一人だった。

「日本のビールうまい!」
コックのキンさんは、ことのほか酒が好きで、いつも酒の匂いをさせていた。俺は、買ってきた三五十ミリリットル入りの缶ビールを三本あげた。キンさんは、日本ビールにお目にかかったことはないらしく、このビールを飲んでから完全に虜になってしまった。それからというもの、俺の姿を見ると追っかけてきて、
「チョウソンビール、ダメネ。ダメダメ。イルボンビール、ウマイ。サントリービール、イチバンウマイネ。」
 僕とマーちゃんの泊まっている部屋は、食堂の隣だった。サントリービールのおかげでコックのキンさんと俺たちは、すっかり意気投合してしまった。それからというものキンさんは、毎日俺たちの部屋に遊びに来るようになった。昼であれ、夜であれ。
「サントリービール、ウマイネ。サントリービール、ウマイネ。」
他のメーカーの日本ビールをあげても、
「サントリービール、ウマイネ。サントリービール、イチバンネ。」
と、きてしまう。まったく、酒の力にはかなわない。この金コックは左腕にイカリの刺青していた。本当は怖い工作員だったりして・・・・・。

 

「普通江(ポドンガン)」

普通江は、俺たちが後に移ることになった「蒼山光(チャンガンサン)ホテル」の近くにあった。十分も行けば、そのおだやかな流れを見ることが出来た。俺はある日、真っ青に澄み切った開放的な天気に誘われ、一人キャメラを持って、近くを散歩したことがあった。秋晴れの空の下で、マスゲームや民族舞踊の練習をしている女性たちのカラフルな舞にしばし見とれ、シャッターを押し、歩を進めると、「清流館」の裏側に出た。

マスゲームの練習をしている女性たちの写真

撮影:薩摩剣八郎

すぐそこは、キラキラと川面が光っていた。ここが大同江の支流、普通江であった。川岸は、コンクリートの壁で固められていた。自然の隆起した岩はない。しかし、水は澄んでいて、身を乗り出すと、川床の玉砂利がくっきり見える。ビニール袋や空き缶などの、異物など見かけられない。両岸にはうっそうと茂った柳並木が続き、無数の枝がムチのように伸びて、小魚たちの恰好の遊び場になっていた。対岸のボート乗り場にはたくさんのボートが整然と浮かんでいたが、人影は無い。いつもは家族連れで賑わいを見せる「普通江遊園地」も、ひっそりと静まり返っていた。


「俺は犯人じゃない」

平壌体育館前の広い道路を歩いていると、突っ走ってきたベンツが俺を追い越して急ブレーキをかけた。なにくわぬ顔をして車を見ると、将校が顔を出し、まるで犯罪者を見るように俺を凝視している。俺は急ぎ足で追い越した。するとベンツはしばらく尾行してきたが、やがて走り去った。真っ赤な帽子に無精ヒゲ、よれよれのジーパンにスニーカーをひっかけ、辺りをキョロキョロ見回しながらカメラを持って歩いている人間なんて、この北朝鮮にはいない。怪しい日本人だとすぐにわかる。
朝鮮と日本、隣国同士でありながら、いまだに国交は回復していない。散歩をしている俺を見て、行き交う人みんながみんな立ち止まり、怪訝な表情をする。軍人はもちろん女性や子供まで、冷たい視線を浴びせてくる。いくら意識しないように心掛けていても、そうはいかなくなる。やっぱり俺たち日本人は、今もなおこの国の人たちに憎まれているのか。日本を発つときに知人が言った、〃テロ国家だから気をつけろ〃その言葉をふと思い出してしまった。

(薩摩剣八郎)


第13回 <北朝鮮プルガサリスタッフ会議>

1985年4月20日、美術監督は北朝鮮に飛び、大同江近くの金日成一族伝記映画を専門に製作「白頭山撮影所(申フイルム仮事務所)」で、第一回「日朝スタッフ会議」を開いた。当然、朝鮮人の日本語通訳を交えて進行したけれども、おかしな日本語になってしまった。怪獣についてまったく知らない朝鮮スタッフとの打ち合わせは、爆笑の連続で、まことに和やかな交流会となった。北朝鮮スタッフの要望は、大工道具、発光塗料、ブルーバックよう照明器具、カソウ剤など、特に、建て込みようの電動工具は一日も早く送っていただかないと大工さんたちは仕事が出来ない。遊んでしまうとの事だった。


[絵コンテに書いてある記号はなんですか?]

通訳「絵コンテ、台本にですね、Lとか、色々、英語の記号みたいに書いているのは、何を意味しているのかって、ゆうんですよ」

鈴木「Lは、ロケーションの意味です。Bはブルーバック合成です。M・Sはミニチュアセットのことです。M・F・Pはミニチュアセットとフロントプロゼクション。B・Bはブルーバックです」

通訳「O・Pはなんですか?」

鈴木「O・Pはオープンセットと合成ということですね」

通訳「カメラ三と書いてあるのは、カメラ三台必要ということですか?」

鈴木「そうです」

李さん「東宝映像とはなんですか?」

鈴木「東宝なんですよ。同じ東宝ですよ。みな会社をこう分けて、そいで成績が上がらないと怒られるようにみなバラバラに分けてあるんですよ。美術は美術、撮影は撮影というふうに・・・」

朝鮮スタッフ一同、一言一言聞きもらさないよう熱心にメモを取る。

李さん(美術担当、やや、日本語が分かる)「チーフデザイナーとはなんですか?」

鈴木「デザイナーがいっぱいいて、そのまた上に取りまとめる責任者がいます。これをチーフデザイナーというんです」

李さん「はあ、そうですか」

鈴木「だが、年を取るとたいがいチーフデザイナーになるんですよ(笑い)」

李さん「主任みたいな(笑い)」



[発光塗料について]

通訳「では本題に入ります。次は発光塗料について聞きます」

李さん「発光塗料というのは、太陽をあてて発光するのと、ライトを当て発光するのと二種類あるんですか」

鈴木「そうです。こっちは重ねセットに塗るのは、色々使ってるんでしょうけどうち日本の方ではドロ絵の具を主に使ってるんですがね。(図面を見て)こうゆう小物の時は、あの、ネオカラーとか、それからあのニスだとか、色々な色を下地の材質によって変えて使ってるんだけど」

李さん「ドロ絵の具っていうのは、一つの箱に入ってるんですか?」

鈴木「袋の中に入っている」

通訳「あ、日本から送ってもらうものを、紙に書きましょうか」

義さん「色の種類など。こっちにあるもので充分足りるかどうかね」

李さん「色は充分間にあっています」

鈴木「キャテックス知ってますか?ブルーバックを塗る」

通訳「大型の方も一つほしいらしいんですよ」

鈴木「うん」

李さん「大型免許ですか、小型免許ですか」

鈴木「大型でないと、手間がかかって大変でしょう。こうゆう小さなミニチュアだとかしらのやる時はいいけど、ホリゾントをザーッとやる時は、あのブルーバックなんかね、大きくないと大変。雲を描くのは、こうゆう小さいものでないとだめなんだ」

李さん「背景にこの小さいのもひとつ」

鈴木「ええ、使えます。もう一度雲を描く人がいますから、聞いてみます」

紙に書く通訳。

李さん「リキテックス二袋ですよね。ただし、灰色と白い色は各々別々に六個ずつ。白はたくさん使うから多く入れてください。発光塗料なんですけど、発光ですよね、全部で二十一キロなんですよ。これは赤ですよね。赤二キロ。青三キロ。黄色五キロ。茶色二キロ。赤と青をまぜると何色になるんだろう。紫ですね、四キロ。ピンク、三キロ。みかん色、四キロ。合わせて二十一キロ。発光塗料ですよね」

鈴木「それはライトに発光する方ですね。

通訳(紙に書きながら)「これは太陽に発光するヤツと、これはライトに発光する方。帰って調べないと、そうゆうのは、ちょっとしらべないとわかりません。李「蛍の光りと書くね」

鈴木「蛍光塗料ですね」

通訳「この塗料は少数でいいと」

鈴木「はい、わかりました」


[ 電動工具の注文について]

通訳「じゃ、これに書いてください。日本から送ってもらうやつですよ。日立電気の大工用品ですよ。日立電気の大工用品なんですけどね(念を押す)。これの方が早く来ないと大変なんですよ。大工さんたちに仕事させなければならないですからね。これが一番急ぐんです。日立電気のGLの三〇四というのがあるらしいんですよ。これがそのリストです」

鈴木さんに書類を渡す。

鈴木「電気モーター、グラインダー、砥石、かんな、トランス。トランスっていうのはあれですか、刺しこみはそのまま日本の一〇〇ボルトで大丈夫なんですか?」

通訳「ここは220ボルト、使うんですけど大丈夫です」

鈴木「トランスは何に使うんですか」

通訳「セットの中に入っているですよ」

鈴木「セットの中に入っていると?」

通訳「ドリル、サイズは0.5ミリから10ミリのもの。ノコギリと固定台。セットになっているですよ。糸鋸はテーブル式機械(木材用、プラスチック用、鉄工用)と、これはは三台ね。全部でつまり三セットですよ。糸鋸も三台ですよ(念を押す)」

鈴木「ええっ、これは一台でいいんじゃないかと値段が高いから、最初一台使ってみて具合がよかったらまた、なにしろ値段が高いからさあ」

通訳「糸鋸はスペアをつけてください」

鈴木「大丈夫。スペアになってますから」

通訳「木材道具の中に全部入ってるんですが、本編の方も使いますから、普通の丸鋸160ミリ、内部はね、電気モーターPGLアンペア九一の二七二一七。一〇〇ボルトで50ないし60が340ワット。サイクルが、日立工機株式会社のカンナですよ。グラインダー、トランスが全部ついてますよ。こうゆうのが一セット。シャクリって知ってますか? これカンナみたいだけど、こうゆうふうにデコボコができるやつですよ。分かりましたか? いいですね」

会議中の日朝スタッフ

撮影:薩摩剣八郎


[ビザが遅れているのは・・・]

鈴木「あのー、ビザは?」(鈴木さんは中国スタッフと打ち合わせのため一刻も早く北京に行きたかった。汽車でも飛行機でも早い方を頼んでいたという)

通訳「思うんですけどね、べつにあの汽車だとか飛行機にしたり、早い方がいいって言うけど、ですからまあ一発でポンを決めて来週の火曜日、飛行機で行ったらどうですか?」

鈴木「いろいろカンチョルさんが努力してくれてね」

通訳「汽車の方もやってることはやってるんですよ。でもビザの関係で結果がはっきり出ないんですよ。どうなるか心配してるわけです」

鈴木「はあ、そうですか。今、宮田さんと雨宮さんのビザを、彼がとりにいってくれてるんですよ。」

通訳「みんなのビザを頼みに行ってるわけですよ。頼みに行くんですが・・・・」

鈴木「すぐに取れないですか?二十二日頃・・・」

通訳「あのービザはですよね、ビザはもらう時手数料として三千円持ってこいって言ったっていうんですよ」

鈴木「あ、そうですか?」

宮田「その話は今話しますから」

通訳「何の話ですか?」

宮田「三千円の費用の話ですから。そういった経費の問題は日本側で持ちますから」

通訳「ああ、そうですか。交通費の問題とビザの問題はそっちでやるんですか?この前,雨宮さんが来た時どうしました」

「ビザはなくてもいいって言われてね(笑い)だからつかまったんだよ」

雨宮「シンヨウで降りたんですよ。シンヨウにはビザも何もないんですよ」


通訳にカンチョル真剣な顔で話しかけている。怒っているようなけんまくだ。


通訳「{カンチョルに}この人が言ってるのわね。あの、飛行機の往復とねて食べるものの費用はわが国で全部もつらしいんですよ。でも、ビザの手続きは自分の手続きだから日本側でだすんじゃないかと言ってるんですよ」

鈴木「あ、そうですか」

通訳「カンチョルさんは、ビザの金を出すのが嫌でそういっているのじゃない。わが国の管財システムがそうなっていると言っているですよ。要するに、日本側から、三千円もらってないからビザの手続きが出来ない。あれば今直ぐにでも行くと・・・」

通訳「ビザ、この人が言ってるのは宮田さんと雨宮さんは、関係ないですよ。それはその他、金さんが受け持っていますから関係ないです。この間、ドイツの技術者や記者が来たときも、他の外国から来たときもそうしている」

鈴木「ああ、ビザの申請費を俺達が払わないから、手続きにいけない。それで、遅れてるわけね。すみません。払います、払います」

カンチョルさん、遅延している理由は自分のせいではない。日本側の手数料不払いで進めない。ビザが取れないのは、じぶんの怠慢じゃない。自分は、誠意をもって任務にあたっているんだから、日本の人は誤解しないでほしい。カンチョルさんの大きな身振り手振りに、みんな大爆笑!カンチョルさん、やっと、白い歯を見せて笑った。ビザ遅延の理由はなんとも他愛のない出来事だった。



[ブルーバックの 照明器具は?]

通訳「ブルーバック用の照明を専門家と話して、五組くらい(玉が六個ついているもの)を送ってくれるようにお願いします」

鈴木「それはブルーバック用照明は、申さんが宮田さんに頼んでいるらしいですよ」

通訳「このプルガサリの場合、ブルーバックを前にしてたくさん撮影しますから、照明技師は誰が来るかわかりませんが、中野さんや宮西さんに言ってですね、それでブルーバックディティールをいかすための小さい照明器がなくていいのか、どうゆうのがダメなのか、聞いて知らせてくださいよ。どうゆうときにどんな照明器を使うか、説明書とカタログなんか送ってくれと」

鈴木「カタログも宮田さんが持ってきて、申さんに渡してあるはずですよ」

通訳「じゃあ、申さんが来たらいっぺん聞いてみますよ」

鈴木「そうですね。それでブルーバックだけじゃなくて、他の撮影用の機材全部宮田さんがパンフレットを持ってきて申さんに渡してあるらしいですよ」

宮田氏が入ってくる。

鈴木「あ、丁度いいや宮田さんきたから。今照明の話をしてたとこです。宮田さん、申さんに照明機材の書類を渡してあるんでしょ?」

宮田「うん」

通訳「ブルーバックのこの照明も入ってるんですか?」

宮田「ええ、入っていますよ」

通訳「ブルーバックも」

宮田「ええ」

通訳「それで、この小さい玉のやつもあるでしょ。それも入ってますか?」

鈴木「パンフレット持ってきてるんでしょ?」

宮田「来てます」



[カソウ剤について]

急に話は、カソウ材{瓦、城壁の石に使用}のほうにうつる。                 

通訳「それで、これはカソウ材なんですよ」メモを見せながら。

鈴木「カソウ剤ね、じゃまず、カソウ材をやっちゃおう」

通訳「このカソウ材はプラスチック、スチロール、ビニールを作るときに使うもので、水のようになっています。DOPがない場合、DOAでもよいのです。これはドラム缶に入っています。DOP、DOAというのはビニールを溶かすカソウ剤ですよ。これを五トンぐらい送ってほしいんですって。五トンといえば、ドラム缶一つが一八〇キロあるんですよ」

鈴木「(驚いて)こんなにでかいの?」

通訳「180キロのドラム缶十本で一トン800ですよ。ドラム缶三十本か四十本ぐらいになるんですよ。ですから、これ日本にいる金さんに言ってですね、DOPとDOAどちらでもいいですから送ってくれと」

鈴木「これメーカー分かりますか?」

通訳「メーカーは分からなくても、DOP、DOAといえば分かりますよ」

鈴木「カソウ剤、なんに使うんですか?」

通訳「ビニールを溶かす。ビニールを作るとき使うやつですよ。プラスチックあるでしょう?プラスチックを溶かして、なんか作るんですよ」

鈴木「こないだ石垣を作ってた、あれですか?」

通訳「そうです。水みたいな気体ですよ。それをプラスチックに混ぜてやる。そのカソウ剤がよくないと、柔らかみがなくなってくるんですよ。このカソウ剤が悪かったり、少しだけ入れると堅いんですよ。よく混ぜて充分入っていると、柔らかみが出て良いんですよ。これはこっちでも作りますけどね、たくさんないんですよ。少ないから輸入するわけですよ。日本からも輸入していますし、いろんな所からも輸入します。ですから、これぐらい必要になってくるわけですよ」

鈴木「じゃあ、金さんが知ってるわけですね? 金さんが送ってくれてるんですから」

通訳「でも、足りないんです。ドラム缶三、四十本ぐらい必要なんです」

鈴木「へええ」(大笑い)

みんなも顔を合わせて大笑い。

通訳、絵を示して

通訳「これなんですよ」

鈴木「ああ、そう。じゃあ、大変だ・・・」

通訳「このカソウ材ですよ。はじめ五トンと言いましたけど、二トンくらいにしておきましょうよ」

鈴木「そうしましょうよ。こりゃ、大変だ」

1985年4月20日 申フイルムにて

(薩摩剣八郎)


第14回 <北朝鮮でのプルガサリ撮影日記>

9月26日、木曜日、晴れ
8時、出発。申フィルムに向かう。みんなそろってムンススタジオの下見に行く。
昼食はモランボン劇場の食堂で冷麺を食べる。これは美味かった。
16時30分、「平壌第一百貨店」で買い物。缶ビール、ジュース、カップラーメン、羊羹など5000円ほど買う。宿舎に帰ったら、マーちゃん他のスタッフが来ていた。俺が泊まっていたダブルベッドの豪華な部屋は、監督他六人で使用することになったので、三号閣の食堂の隣の理容室にベッドを置いてそこでマーちゃんと一緒に泊まることになった。
夜は、台本をチェック。マーちゃん盛んにいい台本だと感動している。
23時、就寝。

9月27日、金曜日、晴れ
俺とマーちゃんは出番なし。
6時半、起床。静かだ。今朝はカケスの鳴き声もなく、シーンと水を打ったようだ。庭掃除中の男の人に窓を開けて
「ごくろうさん」
マーちゃん、日本の煙草を2本ずつあげた。
「カムサハムニダ」
おしいただくようにいて、美味そうに吸う。その後二人は、毎朝窓越しに挨拶を交わすようになった。そのつど、マーちゃんは日本の煙草をあげていた。朝鮮の煙草よりも日本の煙草の方が、数段美味かったようだ。
昼食後は、宿舎で娘たちと話をして過ごす。

9月28日、土曜日、晴れなれど朝霧ふかし
8時、出発。申フィルムで打ち合わせ。スタッフはムンススタジオに向かう。俺は、申フィルムの担当者とパスポート用の写真を撮りに平壌ホテルに行く。年配の写真屋のオヤジは日本語がペラペラで、日本人を扱うのも手馴れていた。
「おたく、日本人ですか?」
「いや、違いますよ。」
「それにしては、流暢な日本語ですね。顔も日本人に・・・」
そこへ急に、申フイルムの担当者が割り込んできて、朝鮮語で会話を始めてしまったので、俺はまずかったなと飾ってある写真に目を移した。
「写真は二・三日したら出来上がりますよ」
写真屋のオヤジは言った。
「じゃ、竜さんに連絡してください」
外に出た。寒い、寒い。急いでホテルに引き返し、一階の洋品店で防寒コートを買った。後で確めたら、日本製であった。
午後より、ムンススタジオにてリハーサル。

9月29日、日曜日、晴れ
撮休。なれど、スタッフは宿舎で、朝から申監督と打合せ。迎えのマイクロバスも来ていない。皆、外出できず。俺とマーちゃんは食堂に行って、女の子たちと日本語と朝鮮語のチャンポンで話す。なんとなく通じている。彼女たちは面白がって、外に出ようと言う。俺たちは接待娘の金順(ヨンスン)と先玉の後に付いて行くと、金網で囲った小屋のような家が塀にくっ付いて建っていた。その中に小屋があって、子犬が一匹クンクン鳴いていた。すると、金順が、「シーッ」と人差し指を唇に当て、茶目っ気を発揮、母犬のすきを窺って中に入り、そつと子犬を抱いて来て、マーちゃんに渡した。マーちゃんは大変喜んで、
「かわいいね。こちょこちょ、写真、写真、早く撮ってよ!親父」
母犬が姿を見せた!・・・・うわ、でかーい!!俺は慌ててシャッター押した。この日は日本スタッフ全員、一歩も外に出られず。

9月30日、月曜日、雨のち晴れ(朝鮮に来て二度目の雨)
8時、出発。申フィルムで打合せ後、ムンススタジオへ。
12時20分、キャメラテスト。スタッフは、二重を組んでいた。別の班では、峡谷の岩をセッテングしていた。
スタジオの右隅に,帆船のセットが組んである。アミ役のチャン・ソニが申フィルムの別作品に出演中だった。あいまをぬって、お互いに自己紹介。ソニはスターなのに、お付きもいないし、衣裳も自分で管理していた。申フイルムの事務所ではお茶汲みもしている。メイク係りのおばさんは少し日本語が分かるので通訳してもらう。ソニとは、プルガサリのことなど話す。
19時、キャメラテスト終了。久しぶりの着ぐるみ、全体が固く動きにくい。

10月1日、火曜日、晴れ
7時半、起床。俺の出番はなし。
宿舎内を散歩したり、テレビを見たり、ハングル語を勉強したりして過ごす。リスが4匹、ドングリの実を食べていた。NHKテレビでは北朝鮮政府の招待状があれば、入国可能だということだった。
昼前、退屈まぎれに金先玉の似顔絵を書いた。お昼の時食堂で女の子たちに見せた。韓正和は親指を上に向けて、グッ、グー、と誉めた。すると、朴金順は覗き込むなり、目を吊り上げ、小指を下に向け頭を左右に振った。俺の絵がお気に召さなかったようだ。金順は日本語は話せないが、日本に興味があった。ある時、手帳を持って俺の側に来て、日本語を教えてくれという。俺は『あいうえお』の五十音を書いて金順に渡した。彼女は嬉しそうにチョンマネヨと言った。ウブで汚れを知らぬ乙女は、その日から一生懸命に『あいうえお』の勉強を始めた。お礼にハングル文字を教えますと言う。俺もハングル文字の稽古を始めた。いつしか金順は俺と友達になっていた。食事を知らせるときも、いの一番に俺に知らせてくれた。俺達は言葉は通じないが、相手の気持は、理解できるようになった。朝、食堂に行くと、ここ、ここ、と指差し座る場所を取っておいてくれる。マーちゃんなんか
「金順は親父に惚れてる。かわいがってやれよ」
と言う始末。

10月2日、水曜日、晴れ
午後より、撮影。北朝鮮に来て初めて、キャメラまわる。10メートルのプルガサリが登場。
17時、撮影終了。そのまま外貨売店ショッピングに向かう。ビール、ジュース、チョコレート、ラーメンなど買う。3035円也。

10月3日、木曜日、晴れ
6時半、起床。
8時、宿舎発。申フィルムに立ち寄り、ムンススタジオに向かう。
シーンは、プルガサリが檻の中に入るところ。このころから、朝鮮スタッフともカタコトで会話がはずむようになる。

10月4日、金曜日、晴れ、だけど霧多い
今日の撮影は芸術映画のオープン〔敷地内の山〕セットだ。プルガサリとアナが薪撮りに山に入っていくカットと、大木の枝をもぎ取るプルガサリ。両手に薪の束をかかえて帰って行くプルガサリとアナ。三カット分を丘の上に組んでの撮影だ。天気はいいし、気分もよし。着ぐるみも身体になじんできた。演技も上昇してきた。さあ、これからが見せ場だ。
夜は、二号閣の美術部の部屋へ行って日本のニュース(NHKテレビ)を見る。

10月5日、土曜日、晴れのち曇り
ムンススタジオで、檻の中に閉じ込められたプルガサリが火攻めにあうカット。丸太で作ったその中に、プルガサリが入って実際に火を点けられる、危険なシーン。檻の周りには、ガソリンを染み込ませたムシロや薪、板など積み重ねて火薬を仕込んである。俺よりも、周りが気を使いすぎ、緊張している。万一のことを考えて、助ける係りと火を消す係りを決めて、テストを何回も繰り返し行い、万全の体制をとっていた。本番は、炎が強すぎてプルガサリの身体がジリジリ焼けて、ウレタンの匂いが着ぐるみの中まで入ってきた。煙も入って来て、目も開けてられない。苦しくて周りを引っ掻き回す。息ができなくなって来た。フラフラになって、立っているのがやっとだ。中野監督の「カーット!」の声と同時にぶっ倒れた。危うく命拾いしたが、みんなのおかげで助かった。
19時、撮影終了。顔は煤けて真っ黒だったが、誰も笑うものはいなかった。拍手が湧き起こった。

10月6日、日曜日、晴れ 
7時、起床。
8時、朝食。
10時、国際郵便局に電話をかけに行く。3分で2700円。回線は平壌、北京、東京と言う具合だ。
帰りに、ショッピングセンターで横縞の長袖のシャツを一枚買う。980円。非常に安かった。日本に帰って洗濯したら、色褪せてしまった。染色技術は、数段劣っている。
18時、外国人専用の焼肉店(清流館)で会食。三階建てで、一階は人民専用だが一般市民には手の届かない店だった。
20時、宿舎に帰る。食堂にて娘たちと雑談。笑い声が響いて、異国を感じさせない。大変いいことだ。
深夜、香港在住の日本人殺陣師、鹿村氏が来てマーちゃんと次回作の話をする。彼らの部屋は、廊下を隔てた隣の映写室にベッドを置いて、全員10名ほどが寝泊りしていた。食事中、彼らは甲高い声でペチャクチャとしゃべりっぱなし。日本スタッフのヒンシュクをかっていた。それを申監督に話すと、香港で役者をするにはそのくらいの自己アピールをしないと、やっていかれないんでしょう、と苦笑していた。

10月7日、月曜日、晴れ
撮休。しかし、スタッフはムンススタジオで準備。俺とマーちゃんは宿舎で娘たちと時を過ごす。
夜、夕食を食べずにみんなの帰りを待っていた。二十一時半頃まで、二人でボケッとしていたが、帰ってくる様子もない。しばらくすると、パクさんが「電話です」と知らせにきた。申フィルムのリュウさんからだった。「食事を済ませてくるから先に食べていてください」という内容だったらしいが、言葉がわからずみんなが帰るまで、待っていた。スタッフが帰ってきたのはかなり遅く、平壌サーカスを観にいっていたという。事情がわかって二人ともむくれる、むくれる。俺はともかく、マーちゃんの怒りはおさまらず、わだかまりは二・三日続いた。俺も、言い出したら聞かないマーちゃんの頑固さをなだめるのに必死だった。

10月8日、火曜日、曇り
朝方、きのうの食事の夢をみて寝過ごす。助監督のノックで飛び起きた。
撮休。
12時、昼食。みんなでマイクロバスに乗り、国際郵便局に電話をかけに行く。通話料2000円。東京へ電話を申し込み、待っている間に朝鮮の切手を4000円分買う。
15時、申フイルム事務所で申監督と会い、映画の話をする。しばらくして崔銀姫さんも顔を出す。
夜は宿舎の娘たちとお菓子をつまみながら、身振り手振りや絵を描いて、日本の話をする。

10月9日、水曜日、晴れ
八時、出発。ムンススタジオ直行。檻のセットの炎上シーンの撮影。危険なのでプルガサリは待機。本番と同時に、爆発炎上。火力が強すぎて、炎が真新しい天井を焦がす。一同、肝を冷やす。仕掛けた百科ゲリラはさほど驚かず、朝鮮スタッフの責任者、ロさんは卒倒せんばかりにカタコトの日本語で「火、火、消せ、消せ!」と叫んだ。が、火の勢いはもの凄く、そばに寄ることができない。とても、消せたものではなかった。水も消火器もなにも用意していないのだから、話にならない。結局、自然に消えるのをみんな待つしかなかった。てなことで、俺の出番はなし。待機のみで終わってしまった。その後、この教訓が活きて、火や爆発のシーンでは、必ずバケツに水をくんで置くようになった。

10月10日、木曜日、晴れ
朝鮮労働党四十周年記念の式典のため、みんな休み。
そんな日でも、スタッフは九時出発、十五時半まで撮影準備。
夜は宿舎でお祝い。シャンペン、肉料理などご馳走が並ぶ。中でも、鶏のおなかに、もち米と朝鮮人参やキムチを入れて丸ごと蒸した料理は、抜群に美味かった。日本人の口に合うので、俺たちはみんな先を争って食べた。タルたちが言うには、これはめったにお目にかかれない、最高の料理なのだそうだ。今日は宿舎のみんなも、おそくまで話がはずみ大騒ぎ。キム支配人、ことのほか上機嫌。日本人スタッフの何人かは、金日成広場に行き人民たちに加わってダンスを楽しんだとか。普段は地味にしている女性人民たちが、この時ばかりは手のひらに香水をふりかけていたそうだ。手をとったとき、良い香りがしたという。
いつもは静かな別荘も、一日中華やいでいた。   

10月11日、金曜日、晴れ
7時16分、マーちゃんの声で飛び起きる。顔を洗うのもそこそこに、食堂に駆け込む。みな、二日酔いらしい。特に、ヤマちゃんはひどい。俺も頭が痛い。
9時、出発。ムンススタジオ直行。
18時半、撮影終了。雨が降り出した。正門前でバスは停止。通訳の金さんたち、降りる。気にとめていなかったけれど、我々の他、朝鮮スタッフ、通訳、責任者は別荘の中に入れない。バスが引き返してくるまで、待っている。日本人以外絶対に、入れないのだ。何故だ?通訳なし、よく過ごせたものだ。・・・変だ。日本語を話す人は誰もいないのに。

10月12日、土曜日、一日中雨が降り続く
21時半まで、残業。夕食は、平壌食堂にて食べる。我々が食べ終わるまで、運転手の李さんはバスの中で待機していた。腹がへってたのに、誰かが誘うべきだった。配慮不足を反省する。
来週にも、北京に向かう予定あり。早急にプルガサリの役者を養成する必要あり。その旨話す。

10月13日、日曜日、晴れ
撮休。
ムンススタジオに立ち寄り、美術の打合せ。後、いったん宿舎に帰る。
15時、ショッピングセンターへ向かう。菓子類を買う。
16時45分、宿舎に戻る。
中野監督らは申氏と今後のスケジュールの打合せに申フィルムに出向く。
我らは、部屋で雑談。

10月14日、月曜日、晴れ
ムンススタジオ直行。連日残業が続く。今日も21時半まで残業。夜食もでる。この日「腹が減った」というと、「じゃ、とっておきの美味しいものを用意します」と製作担当者は真面目な顔で言った。楽しみに待っていると、大きな籠を大事そうに持ってきた。「どうぞ!」と蓋を取った。みんな一斉に手を伸ばす、が、中を見てとたんにひっこめてしまった。なんとそれは、日本のカップめんだったのだ。みんなしかたなく食べようと、お湯を取りに行ったら電熱器の上に小さいヤカンがひとつあるのみで、しかもなかなか沸騰しない。腹をすかせた俺たちは、待ちきれなくなって、ぬるいお湯を麺にかけて食べた。でも、うまかった。
今日も待ち時間ばかり多くて、思い通りに進まず・・・。

10月15日、火曜日、晴れ
10月4日に撮った、プルガサリとアナが薪を取るカットを取り直すため、芸術映画撮影所のオープンセットに向かう。しかし、勇躍前進するプルガサリと枝を折るプルガサリの2カットは天気のかげんにより中止となる。
15時半、スタッフはムンススタジオに行って、明日の準備。
17時半、申フィルムの試写室でラッシュを見る。
19時20分、別荘に帰る。

10月16日、水曜日、晴れ
午後より、急激に冷え込む。風も出てきた。この変わり様は、東京では考えられない。冬将軍の前ぶれか。

10月17日、木曜日、晴れ
いつもの通りムンススタジオで、プルガサリと官軍との戦闘シーンの撮影あり。
昼食を取っているとき、制作から「近いうちに全員ホテルに移動します」という話あり。意外な知らせに、みんな喜ぶ。
俺は別荘の娘たちのためにお菓子を買いすぎて、こづかいが心細くなってきたのでキューピーから5万円借りる。
セット内には風がピューピュー吹き込んで寒い。我々は綿入れの防寒着を着ても、なお震えながら仕事をするが、朝鮮スタッフは人民服だけで平気でいる。それに停電に悩まされて予定通りにはかどらず、残業をしても追いつかず、明日に残して退散。

10月18日、金曜日、晴れ
霜が降りて、田畑が銀色に光っていた。あいかわらず、道路はオモニたちが掃除をしている。
9時、ムンススタジオ入り。昨日の残りのワンカットを撮り終えたら、もうお昼。
13時、助監督の合図で撮影開始。各準備が整った。俺もプルガサリの中に入って本番体制をとった。監督が、「よーい、スタート!」と言ったと同時にキャメラマンが「カット、カット、ダメダメ!」と進行を止めた。「照明が暗くなった!」と言ってるうちに、ライトが点滅して消えてしまった。結局この日は、電気が止まって5時半まで待機。原因がわからず、そのまま退散。

10月19日、土曜日、晴れ
八時半、ムンススタジオ入り。プルガサリが暴れながら敵に向かっていくシーン。なれど、またまた電力低下のため撮影中断。申フィルムにてラッシュを見る。階段でアミと会う。右手を上げて「はーい」と挨拶すると、「はーい」と答えた。久しぶりにあったのだが、おぼえていたらしい。親近感が増す。
スタジオに引き返し、続きを撮る。テスト中に、スモッグがノドに入って息苦しかったが、本番は力強い重厚な演技ができた。満足。

10月20日、日曜日、晴れ
撮休。空気はいいし天気は最高だけど、俺はめずらしく風邪気味。
宿舎の娘たちと写真を撮る。彼女たちは写真を撮られる事はめったにないらしく、わざわざ着替えに行っていた。
昼食は、久米ちゃんが厨房に入り、手作りのチャーハンをみんなにふるまった。
15時、キム支配人が「散歩しないか」と部屋に来る。こんなことは初めてだ。支配人とは漢字を書いてコミュニケーションをとっている。宿舎を出て、裏山に登る。さすがに、警護の兵士も何も言わない。ただ見ているだけ、かりてきた猫みたいに目尻を下げていた。支配人は、詰め所の横を通って塀際の斜面を登りながら俺に行った。「書くものはないか」と、俺は雑記帳を取出して支配人に渡した。すると支配人は、ささっと1900年    書いた。「ああ、朝鮮戦争」俺が言うと、うんうん、と頷き、松林のなかを指差した。あれは、朝鮮戦争の時の塹壕や砲弾の破裂した跡だといった。そこかしこに穴があった。頂上には大きなパラボラアンテナが設置してあった。先端はゴジラ映画に出てくる自衛隊のメーサー車に似ていた。

10月21日、月曜日、雨のち曇り
終日、撮影は快調に進む。
十七時、終了。いつものバスで別荘に直帰。すぐ風呂に入る。髭を剃っていたら、あやまって片方の髭をそり落としてしまった。カッコ悪いので全部剃った。食堂に行ったら、娘たちはすぐに気づいて、親指を立ててうなずいたり、手を叩いて喜んだりしていた。朝鮮では髭を嫌うらしい。

10月22日、火曜日、朝方小雨、のち晴れ
スケジュールが発表になる。11月10日まで撮影して帰国の予定。あさってまでにははっきり決める、という助監督の話あり。
プルガサリと官軍との戦闘シーン。爆発あり、火の玉あり。
16時、終了。

10月23日、水曜日、晴れ
連日、プルガサリと官軍の戦闘は続く。21時まで残業。
「明日、蒼山光ホテルに移る」という連絡あり。みんなハリキル。撮影は順調に進む。

10月24日、木曜日、晴れ
八時、出発。しかし停電のため、待機のみで撮影できず。宿舎に引き返す。
夕食は支配人をはじめ、娘たち、コックの金さん、許さんなど全員で円卓をかこみ、賑やかにお別れ会。場は盛り上がる。いよいよ別れの時が来ると、別荘の人たちは涙、涙。別れはつらい。みんなの幸せを願って宿舎を後にした。
今度の逗留先は、蒼山光ホテルの603号室。マーちゃんと同室だった。
-------ヨシさんの手紙-------宿舎の皆さんへ
4月11日以来、三度の朝鮮訪問にあたり宿舎の支配人、金氏他皆さんにはひとかたならぬお世話になりました。朝夕の食事の支度から、スタッフの弁当をはじめ、部屋の掃除、洗濯、その他細やかな配慮に深く感謝いたしております。来る10月25日に私は、北京での作業準備のため当地を離れることになりました。来春、再会できることを念じ、皆さんの健康と幸せを、そしてプルガサリの成功を祈り、お別れいたします。さようなら。
         
10月25日、金曜日、晴れ
6時45分、起床。ホテルの部屋は質素だが、住み慣れればよくなるだろう。
マーちゃん、夕べの別れの辛さが残っているらしく元気がない。しかも、今日ひとりで平壌を離れる。そのうえ、北京での宿泊先がまだ決まらず不安そうだ。俺は、心配するなと元気付ける。マーちゃんを残して、俺はムンススタジオに向かう。マーちゃん、一人で大丈夫だろうか・・・。やはり心配だ。

10月26日、土曜日、晴れ
ヘクサンドルの城壁の破壊、その他のもろもろの爆破炎上シーンが多し。
午後8時、終了。ボルボでホテルまで送ってもらう。以後、この車で送り迎えしてもらうことになる。
午後11時、一階のバーにて日本のビールを飲む。通訳も一緒。酒をすすめると一気に飲み干した。二杯、三杯と一気に飲む。強い!彼は、金日成大学で日本語を学んだエリートなのである。が、酔ったせいか、だんだん愚痴を言うようになってきた。
「家には三歳になるかわいい男の子がいるので帰りたいんですよ。だけど上司の命令で、日本スタッフと常に行動を共にしろと言われているから、帰れない。その上、同じ部屋に上司も泊まってて、朝早くから腕立て伏せを始めたり屈伸運動をするんですよ。『体力をつけておかなきゃ、いざという時スタミナ切れして役に立たないぞ。お前も一緒にやれッ!』そう言って、うるさいんです」
そんな愚痴をこぼすのも、俺にうちとけてくれた証拠だろう。しかし、いつもビシッとスーツを着こなし、エリート意識が強くて主体思想にかたまっているように見える彼だけに、まったく意外だった。やはり、同じ人間。酔ったいきおいで本音が出たようだ。

10月27日、日曜日、晴れ
撮休。
8時、ホテルの食堂で朝食。一階の喫茶店でコーヒーを飲む。
15時、ホテルから東京のオフィスに電話をする。ふたたび喫茶店に戻り、コーヒーを飲む。
19時、ホテルで夕食。またまた喫茶店に行き、今度はビールを飲む。
20時20分、家族に電話をする。11月15日頃帰ることを話す。


10月28日、月曜日、晴れ
7時、朝食。
8時半、出発。普通門を右折、大同江に向かって突っ走ると玉竜橋にさしかかった。川面を吹き上げてくる空っ風が河岸の柳の枝をしならせヒュウヒュウ乾いた音をたてている。人々は我々と比べるとかなり薄着だ。
「おいおい、寒くないのかね・・・」
ワイシャツに人民服、女の人は,ポロシャツにカーデガン、頭にネッカチーフ、マフーを首から頭に巻いている。
スタジオは,プルガサリと官軍の闘いョンビヨンの攻防戦が続く。昨日のつながり。城壁の壊しあり。
18時、終了。あたりはすっかり闇につつまれた。手探りで出口を探し、迎えのボルボに乗る。15分ほどで玉流橋にさしかかった。大同江のゆったりした流れも闇の中だ。玉琉橋を渡って国会議事堂を過ぎ、普通門を左折すると、3分ほどで蒼光山ホテルに着く。9時15分、夕食。いったん部屋に帰り、風呂に入る。夜はスナックとなる喫茶店にみんなで行く。

10月29日、火曜日、曇り
8時15分、出発。申フィルムにてラッシュを見る。プルガサリのデキが悪い。
ムンススタジオに向かう。アミの最後のシーン。鐘の中に隠れているアミもろとも食べるプルガサリ。鐘楼の鐘を掴むのに一苦労。テストを繰返しやっと掴んだのはよかったが、手に力が入りすぎて食べる前に潰してしまった。代わりを持ってきてもらって、なんとか成功。だが、納得せず。
夜は、ホテルですき焼きを食べるが、注文通り具が揃わずガッカリ。

10月30日、水曜日、晴れ
俺の出番は15時半終了。一足先にホテルに戻り、湯船で汗を流す。
一階の喫茶店でコーヒーを飲みながら、スケジュールの確認。彼女は休み。
夜、東京に電話。なかなか回線がつながらない。1時間待ったが諦める。

10月31日、木曜日、曇りのち小雨
朝方、児童たちの歌で目覚める。
8時半から21時半まで撮影。
22時半から一時間ほど、一階の喫茶店で水割りなどを飲む。日本語を話すウエイトレスの名前は金 麗花といって、まことにかわいくて感じがいい。みんなのマドンナになっていた。

11月1日、金曜日、曇り
6時40分、起床。
7時半、ムンススタジオ入り。
8時、撮影開始。遅れを取り戻すため、開始時間も早くなった。呪術にかかったプルガサリが、引き寄せられ穴の中に落ち、爆破された岩に埋まってしまうというシーン。瓦礫を、ベニヤを敷いた二重の上に山のように準備していて、爆破を合図に穴に落とす。瓦礫の落ち具合がうまくいかず、何度も拾っては落とし、拾っては落としで18時までかかってしまった。
18時15分、ラッシュを見るため申フィルムへ向かう。
19時、ホテルに帰り、夕食。
20時45分、下の喫茶店で麗花と話す。仕事のこと、滞在先のことなど。マスターはもと在日で、日本語がペラペラ、24時まで話し込んでしまった。

11月2日、土曜日、晴れ
冷え込む。大同江も薄氷が張っている。もう少しすると、この川の上を車が走れる、と通訳が話していた。信じられない・・・。
階下の喫茶店にて、松ちゃんと二人でウイスキーを飲む。麗花と話をするが、酔いがまわってきてしどろもどろになる。酔うほどに異国の夜のムードが高まり、夜半まで遊ぶ。楽しきことなり。  

11月3日、日曜日、晴れ
撮休。
8時頃、ドカーンドカーンという爆発音で飛び起きる。すわ、爆弾かとベランダに出でみると、蒼光山の手前のビルを大きな鉄の玉でぶち壊している。古くなったビルの解体作業の音だった。いや、驚いた。戦争でも始まったかと思ったよ。やれやれ、良かった。
20時半、夕食。
21時40分。東京に電話。大作の七五三で明治神宮に行ったとのこと。大作、服が気に入らずフクレテイタとか。友だちのダンナさんが写真を撮ってくれたそうだ。

11月4日、月曜日、晴れ
8時半、出発。プルガサリと官軍の戦いで、官軍の放った矢がプルガサリの目に刺さるカット。矢といっても丸太のように大きい。迫ってくるプルガサリ目掛けて、何十本と飛んで来る。その内の一本が右目に刺さる。 バックは山で足元もよく、さしたる仕掛けもない。迫ってくるプルガサリに、キャメラ(矢の目線)が突っ込んでいくという簡単な短いカット。プルガサリのアクションは、矢を右手に持っていてキャメラ目線に入ったら突き刺さった動きをする。それだけなのだが、キャメラとプルガサリの芝居のアクションが、何回やっても一致しない。四苦八苦してそのシーンが終わったのが16時。プルガサリのアクションで、矢を引き抜くアップ。これも抜いた時に出る血しぶきがうまくいかず、終了したのが18時40分。結局、この2カットだけで退散。

11月5日、火曜日、曇り、昼頃より晴れ
余すところあと10日で帰国だ。セットでは、アミとの死を賭けたヤマ場の撮影が続く。俺も気が入って、時間がもったいないのでプルガサリの中に入ったままでいた。気合も入っていたが、気ぐるみが暖房器具のかわりになったからだ。みんなは唇を紫色にしていた。

11月6日、水曜日、晴れ
撮影は1カット。昼頃終了。申フィルムによってラッシュを見た。
14時半、ホテル着。さっそく風呂に入ろうとしてお湯を出すが、チョロチョロとしか出ない。いつも出がよくないが、この日は特に悪かった。お湯がたまるまでの間、部屋で運動をしたりゴジラ日記を書く。
16時過ぎ、一階の喫茶店へ行き、夕食まで時間をつぶす。

11月7日、木曜日、晴れ
8時半、出発。穴埋めにされたプルガサリが、アミの腕から滴る血を受けて、飛び出してくるシーン。仕掛けは二重を三枚かさねて、その上にプルガサリが立ってスタンバイ。四隅にロープを結んで滑車をつけ引き上げる装置を作った。ロープを引っ張ると、プルガサリが地面を突き破って飛び出してくる。キャメラはそこを狙う。その仕掛けだけで、一日中かかってしまった。また、中は真っ黒で上がるタイミングがつかめない。外でロープを引っ張る操演の合図は、助監督を介してはいるが、聞こえない。まして、つかまる所もないので、立っている俺は転びそうになるのをこらえるのが精一杯。とても演技どころではなかった。おまけにキャメラは5倍のハイスピードでまわっている。上げる方もそれとあわせる。仕掛けがまたスゴイ。火薬、発煙筒、アメ火薬を、飛び出すと同時に爆発させる。そんなわけで、1カットだけで1日が終わってしまった。

11月8日、金曜日、曇り午後より雨
俺だけ撮休。
終日、下の喫茶店で過ごす。

11月9日、土曜日、雨、夜雪に変わる
俺だけ撮休。
下の喫茶店でくつろぐ。在日のオモニたちが団体で来ていた。流暢な日本語なので「日本語うまいですね」と聞いたら、荒川区に住んでる人たちだった。
11時50分、「日本で会いましょう」と女性たちは出て行った。その後、店のウェートレスたちと写真を撮る。
ホテルの食堂で昼食。
15時過ぎ、制作の担当者が来る。みんなは残業なので、ホテルに弁当を取りに来たらしい。まだ、出来ていなかったので、ホテルの従業員に届けてもらうようにしてスタジオに戻った。
 残業から帰ってきたスタッフたちと一緒に夕食をとっている時、ホテルの支配人が大騒ぎしていた。何事かと確めると、弁当を配達に行ったウェートレスがまだ帰ってこないらしい。「あなたたち、なにをしたんですか?」と、えらいケンマクで怒っていた。

11月10日、日曜日、晴れ
夕べから降り続いた雪で一面の銀世界。
今日はスタッフも休みだ。食堂でクマさんと、夕べのウェートレスの話になる。帰ってきた、ということだった。詳しい事はわからないが、ただ、日本人が関わっていなかったことだけは確かだ。
その後、旭商会に行く。俺は買い物はせず。
14時半、喫茶店に。スタッフたちも来ていて、日本酒をごちそうになる。
照明技師のテンちゃんが、日本の演歌のカセットテープを、店のみんなに聴かせて感想を聞く。「北酒場」がイイとウケていた。麗花はテレサ・テンに興味があるらしく、聞いてきたので「彼女は中国の人だけど日本に来て、恋をして結婚したよ」と言うと、麗花はびっくりしていた。北朝鮮の人でもそういうことに興味があるのか・・・。「ハナコという女優さん知ってる?」と聞いてきた。「そんな女優はいないよ」俺には心あたりがない。どうも映画の役名らしい。会い

11月11日、月曜日、晴れ、ときおり雪がちらつく
俺だけホテルで待機。
14時半、ムンススタジオ入り。鐘を食べたプルガサリが、その中にアミが死を共にする覚悟で入っていたことに気づいて苦しみ、悲しみ、発狂して、粉々に砕け散るシーン。プルガサリの最期ということで、俺は朝から感情表現をどう表すか幾通りも考えていた。本番は一回でOKが出た。物足りない気がしたが、朝鮮スタッフの責任者のロさんが近づいてきて
「ヨカッタデスヨ、ワタシ、感動シマシタ。北京ノ太和殿ノ壊シノトキモ、フツウナラバ、失敗デ、アアハイカナカッタデショウ。薩摩トンムハ下カラスクイアゲテ、浮カシテ上カラ壊シタ。感心シマシタ。ヤッパリ本物デシタ。今日モヨカッタデス。アリガトウ。明日モ、オ願イシマス」
夕食の時、突然
「薩摩さんの出演シーンは本日で終了しました。ただし、マル山シーンが残っていますので、いったん日本へ帰って、また来てもらうことになりますけど」
と助監督が発表した。
「おつかれさん!いいねぇ、俺たちも早く日本に帰りたいよ」
「剣ちゃん、いいなぁ、一人だけ帰れてさ」
とみんなにねぎらわれたり、羨ましがられたりで、とくかく乾杯する。
22時半から24時まで、みんな集まって下の喫茶店で二次会。

11月12日、火曜日
9時、スタッフ出発。ホテルにいたら、製作担当が来て「明日列車で北京に向かいます。薩摩さん他、松本、鈴木も一緒です。11時半にリュウさんがホテルに向かいに来ます」
19時、夕食。いつもよりビールがきいた。
20時から24時まで、喫茶店にて平壌最後の夜を過ごす。松ちゃんと二人で麗花を独占。店の人たちと別れを惜しむ。

11月13日、水曜日、晴れ
帰国に向けて、平壌から北京への移動日。
9時10分、通訳の金さんとセンイルが別れの挨拶に来た。
十時、申フイルム。所長と残りのシーンの打合せと離鮮の挨拶。
11時50分、ホテル出発。時間がない。車は猛スピードで平壌駅に走った。改札もフリーパスだ。走りに走ってやっと間に合った。
12時平壌発。本渓着10時14分。天津を経て、北京には翌朝9時48分着の予定。駅には、美術のヨシさんと通訳の黄さんが、迎えに来てくれるという。あわただしい離鮮だったが、見送るほうも、見送られるほうも、再会を楽しみにして別れた。また来る日まで、さようなら、北朝鮮!

(薩摩剣八郎)


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